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使徒15:1-12:エルサレム会議(1) 20261018

2 日前
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更新日:2 日前

(聖書)

エレミヤ書31章31-34節 (旧約1237頁)

使徒言行録15章1-12節(新約242頁)

 

本稿は、2026年10月18日の日本基督教団杵築教会における聖霊降臨節第22主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


(説教要旨)

先週の説教では、第一次宣教旅行の折り返し地点、デルべから迫害されながら来た道を引き返しています。パウロとバルナバは、帰りの道で、信仰を持った弟子たちに、「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、「信仰に踏みとどまるように励まし」、「教会ごとに長老たちを任命し」ています。迫害された町を再訪問するのですから、まさにパウロとバルナバが身をもって、「多くの苦しみを」受けることを実践したのです。そして二人を通じて神の言葉を聞いて信仰を持った弟子たちに再開して、教会ごとに長老を任命して教会形成の働きをして、信徒たちを主にお任せしたというのです。

 

それから一気に、第一次宣教旅行のアンティオキアに戻って、アンティオキア教会に宣教旅行報告をしています。そして14章最後の28節には、パウロとバルナバが、しばらくの間、弟子たちと共に過ごしていたと書かれていました。

 

そして使徒言行録15章1節には、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。」と書かれています。この「ある人々」とは、5節に出てくる、ファリサイ派からキリストを信じる人々です。エルサレムからアンティオキアに下って来て、アンティオキア教会の「兄弟たちに教えていた」と書かれていますから、彼らはイエスを信じていた教会員だということです。

 

2a節に、「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。」と書かれています。今日の聖書箇所においては、パウロとバルナバは、彼らの割礼を異邦人にも求める主張を聞いて激しく反発をしています。そうした論争を解決するために、エルサレム会議が開かれることになったのです。2b節には、「この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」と書かれています。いよいよ、今日の説教題とさせていただいたエルサレム会議が開催されることになったのです。


3節には、そのアンティオキアの教会から送り出されたパウロとバルナバの一行が、「教会の人々から送り出され」、道中、「異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。」と書かれています。

 

そして4節には、一行がエルサレムに到着すると、エルサレムの「教会の人々、信徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいておこなわれたことを、ことごとく報告した。」と書かれています。

ところが5節では、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言っています。彼らは、イエスの言葉を信じる信仰だけでは駄目で、モーセの律法を守って割礼を受けてユダヤ人のようにさせなければいけないと主張しました。

 

このようにこの問題について、すでに多くの人が関心を持っていることと、救済の教理についての前哨戦が始まっていることが分かります。

 

「ファリサイ」とは、分離を意味する言葉で、律法に従って分離された人たち、区別された人たちという意味のある呼び方です。

割礼は、旧約聖書の創世記17章12節で、男子は皆、「生まれて八日目に割礼を受けなければならない」と命じられていますから、彼らは異邦人に対して、モーセの慣習に従って割礼を受けることが条件だと主張しているのです。

 

主イエスは、「信仰のみ」という定型句を直接語られたわけではありませんが、ヨハネによる福音書3章36節で「御子を信じる人は永遠の命を得ている」ことを明確に教えられました。 その信仰は、イエスへの愛と従順から切り離して理解することはできません。また、パウロは、エフェソの信徒への手紙 2章8〜9節で「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」と言っています。

ところが、ファリサイ派から信者になった人たちは、救いは信仰だけでなく、洗礼に加えて律法に従う割礼を受けなければ救われない、と教えていたのです。わたしたちキリスト者に、聖書の律法に厳格になれ、割礼を受けろ、ユダヤ人になれと言うようなものです。

 

6節に、「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。」と書かれています。ここで、エルサレム会議の本格的な審議が始まったと考えられます。7節には、「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。」と書かれています。なぜペトロが発言する前に、「議論を重ねた後」とわざわざ書かれているのでしょうか。この言葉は大切な意味を持っています。

 

1節には、ユダヤから来た人々が、『割礼を受けなければ救われない』と教えていたと書かれていましたが、5節には、ファリサイ派から信者になった人々が、『異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきだ』と主張しています。彼らの主張が、より強くヒートアップしていることが分かります。

それは単なる生活習慣の違いではなく、神の救いを受けるために何が必要なのか、という根本的な教理に関わる問題が議論されているということなのです。


7節に、「議論を重ねた後」と書かれていることが意味していることは、使徒たちと長老たちがこの問題を検討するために集まって、聖書の教えと、実際に起きている出来事を確かめて議論したことが書かれているのです。この問題は、異邦人をどのように受け入れるかという今後の教会のあり方を大きく左右する問題だったのです。一人の有力な使徒の意見だけで決めるわけにはいきません。使徒たち全員と教会を構成している長老たちが共に考える必要がありました。双方の主張を聞き、イエス・キリストの新しい福音を信じた者同士が、共に神がなさったことについて議論を重ね合わせる努力をしたのです。

 

初代教会も、最初から全員が同じ理解をしていたわけではありませんでした。それでも、対立をそのまま放置せず、神の働きを共に見つめることで、教会としての答えを見い出そうとしているのです。

わたしたちが、今日の聖書箇所から学べることは、教会が大切な問題に向き合うときの姿勢です。意見の違いがあることを、すぐに悪いことと決めつけないで、相手の主張を聞き、何が問題なのかを明らかにする。自分たちの伝統や考えだけでなく、聖書と神の働きに照らして判断する。最終的には、人間の功績ではなく、神の恵みを中心に据えることが必要なのです。

大切なのは、互いの意見を聞き神の御心を求めることです。

 

こうした議論を重ねた後、ペトロが発言しています。

使徒言行録10章(232頁)の「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長コルネリウスに洗礼を授けたことなど実際のペトロの体験に基づいてペトロが語っていますが、自分の考えを述べただけではありません。神ご自身が、異邦人を受け入れられた事実を会議の出席者たちの前で証言しているのです。

 

8節でペトロは、「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。」と言っています。また9節では、自分の体験に基づく結論として「また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」と確かな証言をしています。

 

そして10節では、「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」と、自分も含めて負いきれないことを異邦人の「あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか」と言っています。

パウロが、「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」と言っている発言には重みがあります。ファリサイ派の人たちの主張は、律法を守って割礼を受けてユダヤ人らしくあるべきだというもので、「こうあるべきだ、こうあらねばならない」というもので、それは、ユダ人にとっても重たすぎる軛で、人間の努力で誰もなし得なかったことなのです。

 

そして、11節では、自分たちも彼ら異邦人も「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」と言っています。ペトロは、救いは律法を完全に守ることによって得られるのではなく、主イエスの恵みによるのだと語っているのです。

 

その後12節で、パウロとバルナバが、第一次宣教旅行において異邦人の間で神が行われたしるしと不思議な業を報告しています。「すると全会衆は静かになりバルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。」と書かれています。

それからペトロの発言を裏付ける出来事の証人として、バルナバとパウロが語っています。万全な会議の建付けが出来ています。

 

エレミヤ書31章33節では、神は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と約束されます。エレミヤは、新しい契約を通して神がなさることを預言しました。つまり、神の御心が不要になるのではありません。神との関係のあり方が新しくなるという預言書です。

エルサレム会議のファリサイ派から信者になった人々は、異邦人にも割礼を求めることで神の民を守ろうとしていたのかもしれません。しかし、神がすでに聖霊を与えておられると知ったとき、彼らには、自分たちが考えていた神の民の救済の教理を見直すことが求められました。

 

ペトロは、使徒言行録15章11節で、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、あの人たちも同じことです。」と言って、異邦人にも聖霊が与えられたという出来事を前にして、初代教会が、神の救いの範囲をどのように理解すべきかを問い直しています。

ペトロは、ユダヤ人も異邦人も、救いにおいて神の恵みに依存していると言って、神は異邦人にも聖霊を与え、信仰によって異邦人の心を清められたと語り、ユダヤ人と異邦人双方が恵みによって救われると語っているのです。

 

わたしたちも、信仰生活において神がすでに働いておられるのを見い出したとき、自分たちの理解を謙虚に問い直す必要があります。謙虚に問い直すためには、どうすればよいのでしょうか。それは、人間の力を捨てて、神に委ねることです。わたしたちの心の中には、捨てたくない、手放したくない、かたくなさがあるので大変です。しかし聖書は自分を捨てることを求めています。

 

自己放棄をすると、自分にはできない、だから神にしていただかなくてはならないという思いが強くなり、謙遜な心が生まれます。

もしわたしたちに努力することが残されているとするなら、それは徹底的な自己放棄をすることなのです。神に委ねることで感謝の応答が生まれるのです。

初代教会はそのようにして確かな歩みを整えたのです。

 
 
 

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