top of page
検索

使徒15:1-12:エルサレム会議(1) 20261018

ここで注目したいことは、聖書が「議論を重ねた後」と記していることです。初代教会も、最初から全員が同じ理解を持っていたわけではありませんでした。それでも、対立をそのまま放置せず、神の働きを共に見つめることで、教会としての答えを見い出そうとしているエルサレム会議の運営手法です。 わたしたちが、今日の聖書箇所から学べることは、教会が大切な問題に向き合うときの姿勢です。意見の違いがあることを、すぐに悪いことと決めつけない。相手の主張を聞き、何が問題なのかを明らかにする。自分たちの伝統や考えだけでなく、聖書と神の働きに照らして判断する。最終的には、人間の功績ではなく、神の恵みを中心に据える。大切なのは、互いの意見を聞き神の御心を求めることです。

使徒14:21-28『信仰に踏みとどまる』 20261011

22節には、「子たちを力づけ、「わたしたちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」」と書かれています。 23節には、「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」と書かれています。 「弟子たち」とは教会の信徒のことです。ここでは二度使われていますので、弟子たちの教育に目が向けられたことを示しています。 第1次宣教旅行の帰りは、新たな地に向かって行くときに福音を宣べ伝えて来たときに、「喜びと聖霊に満たされていた」弟子たちに目を向けて、教会の信徒たちを励まし教会形成の指導をすることが目的になったのです。

使徒14:1-20『主を頼みとして』 20261004 

3節に、「それでも、二人はそこに長くとどまり、『主を頼みとして』勇敢に語った。」と書かれています。迫害の中で忍耐をもってそこに長くとどまって、主を信頼して大胆に宣教を続けたです。そして「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」と書かれています。ここでは、主(イエス)が主語として書かれていることに注目してください。主が、パウロとバルナバの手を通してその恵みの言葉を証しされている聖霊の働きなのです。 このように迫害が続く中で、主イエスの力が働いて伝道が続いていきましたが、4節には、その結果、町の人々が分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒たちの側つまりパウロとバルナバの側についたと書かれています。 主イエスの福音が力強く語られる時に、神の恵みによって自由意志が与えられている人々が、福音を信じて受け入れる者と反対する者の二つに分けられるのです。そこには中立ということはあり得ません。主は、神の恵みの言葉を受け入れるのか拒否するのか、神はわたしたちにその二者択一を迫るのです。

使徒13:42-52『永遠の命を得る』 20260927

ここで特に重要なことは、パウロが「自分で伝道を始めた」のではなく、「主から命じられた使命を受けて、キリストの救いを異邦人へ運ぶ」ことが使命だったということです。 そして13章46~47節そのものが、「主がわたしたちに命じた」と宣言しています。ですから、旧約聖書においてイスラエルが担うはずだった使命を、主イエス・キリストが代表して完全に成し遂げてくださることになるのです。つまり新約聖書では、イスラエルと無関係な別の人物としてではなく、イスラエルを代表する真の僕、真のイスラエルとして主イエスが登場するのです。

使徒13:13-43『励ましの言葉』 20260920

旧約聖書に記されているモーセの律法に生きようとしていた人人に対して、パウロは、あなたがたが無理解だったから、あなたがたが正しくなかったから、キリストを十字架につけてしまったのだと咎めて罪の指摘をしていますが、同時にその罪の赦しについても語っています。さらに罪が赦されたその先にある本当の祝福を示しながら語ることで、13章15節で会堂長からの「励ましの言葉」を語ってくださいと求められたことに応じたのです。l

使徒13:1-12『聖霊に送り出される』 20260913

二千年の歴史の中、このまっすぐな道を曲げようとする力が働き、困難や誘惑が常にありました。しかしそれらはすべて乗り越え、逃れの者、残りの者がいたことが聖書に記されています。 このまっすぐな道な見通しの良い、希望に満ちた完全な道をこれからも歩んでいくことができますようにとります。主に導いていただきましょう。 わたしたちは一人ではありません。教会において共に歩む仲間たちが与えられていることを感謝いたします。教会の交わりが絶たれてしまうことなく、ますます愛と献身と祈りに生きることができますように。今この時の歩みを、そしてこれからの歩みを聖霊に送り出される者としてどうぞ導いてくださいと祈り願います。いい

使徒12:1-25『神の栄光のもとで』 20260906

ヘロデが、主の天使に撃ち倒されたのはなぜでしょうか。 「栄光」という言葉は、普段の日常生活ではあまり使わない言葉ですが、別の言葉で言えば、「栄誉」「称賛」「尊敬」「輝き」という意味です。 キリスト者は神の栄光のもとで、神を賛美し神を指し示す生き方をしています。一方、ヘロデ王は、どこにでもいる為政者のように、自分にスポットライトがあたることを喜ぶ者でした。その結果は、「蛆に食い荒らされて息絶え」るという悲惨なものです。 一方で24節には、「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」と、神の権能の下にある祝福が書かれています。

使徒11:19-30『キリスト者と呼ばれる』 20260830

使徒言行録の9章26節には、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」と書かれていました。そして27節に、バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内して、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明して、バルナバが執り成しをしたのです。迫害者が伝道者になったのですから、教会の人たちも警戒したでしょう。パウロは回心して伝道者になりますが、最初のうちはなかなか大変だったというのは当然の事でした。 今日の使徒言行録11章25節以降は、その続きとなるものです。それからバルナバはサウロを捜しにサウロ(パウロ)の出身地タルソスタルソスへ向かったと書かれています。そして26節でバルナバがサウロを見つけ出してアンティオキアに連れ帰っています。アンティオキアでバルナバとサウロが丸一年多くの弟子たちを教え、初めてキリスト者と呼ばれるようになったと、書かれています。もはや教会はユダヤ人だけのものではありません。

使徒11:1-18『三度あって、三人の人が』 20260823

ここでは、三という数字自体に特別な神秘的意味を読み込むよりも、「神の御心が確かに示されたこと」を強調する表現をしていると考えて、今日の説教題を「三度あって、三人の人が」とさせていただきました。 ペトロは一つの出来事だけではなく、複数の神の働きが重なっていたことを順序正しく証言して、異邦人への福音宣教は人間の思いつきで始まったことではなく、神ご自身の導きで行われたものであることを、ペトロは自分の体験として証ししているのです。

使徒10:34-48『すべての人の主』 20260816

36節でペトロは、「神がイエス・キリストによって」と言って、「この方こそ、『すべての人の主』です」とつけ加えて強調しています。このことこそが、神がペトロに新たに示されたことです。ペトロは、ユダヤ人の間に遣わされ十字架と復活による救いのみ業を成し遂げて下さった主イエス・キリストが、異邦人をも含めた『すべての人の主』であると、はっきりと告げているのです。

使徒10:1-33『神の前にいる』 20260809

ローマの百人隊長コルネリウスが使徒のペトロに、「よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、『神の前にいる』のです」と、とても謙遜な言葉で語っています。 このことによって、コルネリウスのような謙遜な姿勢で神様の前に立つ時に、その人がどのような人であっても、真実に神様のみ言葉を聞くことができることが証されているのです。 このことから、わたしたちも主が語られる言葉を残らず聞こうとする謙遜さを大切にしたいという祈りを込めて、今日の説教題を『神の前にいる』とさせていただきました。

使徒9:32-43『起きなさい』 20260802

アイネアもタビタも、起き上がりました。41節の「立たせた」も「起き上がる」、「立ち上がる」、「甦る」、「復活する」これらはギリシャ語のアネステイミーで同じ意味です。 その結果はどうなったでしょうか。35節に、「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」、42節に、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。」と書かれています。続々と、アイネアとタビタに続くように、信仰において「起き上がる」者たちが続いていったのです。主が用いられていますので、ユダヤ人たちが慣れ親しんでいた聖書に書かれていた主なる神を知っていた人たちが、主なる神イエス・キリストを通じて父なる神を知るようになったのです。

使徒9:19b-31『全地方で平和』 20260726

31節の「教会」とは、エルサレム教会はもちろんのこと、ガリラヤやサマリアにある数々の教会も含めて、全地方の教会を包摂したものです。主イエス・キリストを頭とする一つの教会が、「全地方で平和のうちに築き上げられ」て、「聖霊の慰めを受けて増えていった」と書かれているのです。 この言葉をもって使徒言行録の第一幕が閉じられています。 ここまで、ステファノの殉教、エルサレム教会での激しい迫害から始まり、フィリポのサマリア宣教とエチオピアの宦官の洗礼という出来事が連続して書かれていました。そして使徒言行録9章に入ってサウロによる迫害と回心の出来事が書かれていました。迫害があるということで、人間的に見れば教会は弱体化するように思われがちです。しかしルカは、使徒言行録の9章31節の最後で、教会はますます「増えていった」という言葉で結ぶことによって、迫害や困難は福音を止めることができず、神様ご自身が教会を成長させておられるというメッセージをわたしたちに伝えているのです。

使徒9:1-19a『目からうろこ』 20260719

ここに「目からうろこ」という言葉が出てきます。 わたしたちは、最初から目が見えていた者など誰もいません。 見えなかったわたしのところにも、神様が「宝の入った器」を遣わしてくださいました。だからこそ、わたしも目からうろこが取れて見えるようになったのです。 聖書のことを知らない人でも、目からうろこと言う言葉を使っています。「目からうろこが落ちる」という言葉が慣用句として用いられるようになっているのです。 「パウロの目を覆っていたうろこのようなものが落ちて、真実が見えるようになった」というこの場面から、思い込みや偏見がなくなることや、急に物事の本質が理解できるような新しい視点が与えられて、はっと気づく、という意味です。

使徒8:26-40『手引きしてくれる人』 20260712

その後、フィリポの名前が出てくるのは約20年後です。 使徒言行録21章8節(新約255頁)に、パウロの第三次伝道旅行の終わりの記事が書かれています。 「翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。」と、20年後のフィリポの家族の様子が書かれています。預言をする四人の未婚の娘のことが書かれていて、平穏な評判の良いクリスチャンファミリーを形成しています。

使徒8:14-25『主に祈ってください』 20260705

わたしはこう考えます。 わたしたちは、神様に喜んでいただけることをせず、聖霊を悲しませることをしてしまう者であることを悔い改めて神様に告白し、主イエスの赦しを請う祈りを捧げ続けることが大切だということです。「あなたは祈っていますか」という言葉はわたしたちを救う言葉となるものです。 「主に祈ってください」と仰ってください。神様は、祈るわたしたちに決して悪いようにはなさいません。ですから、わたしはいつも皆さんに聖霊に守られた純真な祈りをすることをお勧めしているのです。それさえあれば、あとは何もいりません。 「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主イエスは言われています。人間の善意や行動をはるかに超えて、必ずよいものを、聖霊を与えてくださる。それがわたしたちの確信なのです(ルカ11:13)。 今週も聖霊に満たされた自らの純真な祈りをさせていただきながら、主イエスと共に歩ませていただきましょう。

使徒7:54-8:1a『神の右に立っておられる』 20260628

ステファノは、聖霊に満たされてが55節に、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見た、と書かれています。 そして56節には、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と言っています。今日の説教題とさせていただいた、(人の子イエスが)「神の右に立っておられる」のを見たという珍しい表現が、55、56節で二度も書かれています。また人の子とは、主イエスがご自身のことを指して「人の子」という言葉を使われるのではなく、イエス以外の人が主イエスを指して「人の子」と言っているのはこの聖書箇所だけなのです。 わたしたちは使徒信条で、「全能の父なる神の右に座したまへり」と告白しています。「(神の」右に座す」ということは、詩編110編1節に出てくる言葉ですが、その意味は、神の右に座っているイエス・キリストに全能の父なる神と同じ権威が与えられていることを表す言葉です。ところが、ここではステファノが、「人の子が神の右に座しておられるのが見える」と言うのではなく、「神の右に立っておられる」という言葉を筆者のルカは二度用いて強調し

使徒8:4-14『サマリアでのフィリポの働き』 20260621

フィリポは、自分の名は高めようとはしていません。あくまでも伝道者として、イエス・キリストを伝えたのです。5節に、「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」と書かれていました。そして12節には、「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」と、書かれています。 「神の国」とは、神様のご支配のことです。その結果、13節に、「シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」とあります。それまでは魔術師として人々を驚かせ、心を奪い、目を自分に注がせていたシモンが、今度は逆に驚かされる立場になっています。 このようにして、サマリアの町は魔術の支配から神様のご支配がなされるように変わっていくのです。

使徒8:1-4『ディアスポラ』  20260614

8章4節には、「散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いていた。」と書かれています。大迫害の中でも主イエスの福音が広がっていったということです。 使徒言行録1章8節に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と、主イエスは弟子たちに言われたと書かれていました。今日の聖書箇所がわたしたちに示していることは、「状況が悪いから仕方ない」ということではありません。「災いが止むまで待ちなさい」でもありません。主イエスの福音が広がっていったのです。

《教会基本聖句》

​

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2035 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page