ルカ9:28-36『最期/出発』 20261101
(聖書)
申命記3章23-28節 (旧約285頁)
ルカによる福音書9章28-36節(新約123頁)
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年11月1日(聖徒の日)降誕前第8主日礼拝:昇天者記念礼拝/創立137年記念礼拝の説教要旨です。
(聖書)
申命記3章23-28節 (旧約285頁)
ルカによる福音書9章28-36節(新約123頁)
(説教要旨)
本日は教会暦で先に召された方を覚える「聖徒の日」です。
お手元に現存している召天者名簿をお配りしました。この教会は今年137周年を迎えたのですから、この何倍もの方々が、この教会に連なって信仰の生涯を歩み、そして主のみもとに召されておられると思います。
その中に自分の家族がいるとか、よく知っており、親しくしていた人たちがいるという人も多いでしょう。よくご存じの方であれば、いろいろな思い出があり、覚えることができるでしょう。しかしもう一方で、全く知らない、会ったこともないという召天者もおられると思います。
神様がすべてをご存じですから主にお委ねして、地上で信仰生活を送っているわたしたちと、すでに地上の生涯を終えて神のもとにある方々とのつながりに感謝の祈りを捧げるが聖徒の日です。わたしたち一人一人が、人間の生涯に神の恵みがどのように現れるかを指し示す証人となって、神への信頼を新たにさせていただけるよう共にお祈りしたいと願います。
テサロニケの信徒への手紙一の第4章13節(新約377頁)には「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と書かれています。
そして、ぜひ知っておいてほしい、いうことは、わたしたちは、イエスが死んで復活されたと信じていることと、神がイエスを信じて眠りについた人たちをもイエスと一緒に導き出してくださる、と言うことだと書かれています。
イエスと一緒に導き出してくださるという意味が大切です。主イエスは、『死』の支配下からわたしたちを導き出して、新しい命を与えてくださる、そしていつまでもわたしたちと共にいてくださるということなのです。
父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させて、新しい命、もはや死ぬことのない永遠の命を与えて下さいました。それと同じように、イエスを信じて教会に連なって眠りについた者たちにも、父なる神は、死の力を滅ぼして新しい命を与えて復活させて下さるのです。わたしたちには、そのような希望が与えられているのです。
先ほど司式者の方が、今日の記念礼拝でわたしたちに与えられた聖書個所を聖書朗読していただきましたので、丁寧に読み進めてまいりたいと思います。
最初にルカによる福音書9章28節(新123頁)に目と耳を傾けてください。
主イエスは、「ぺトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と書かれています。聖書の中で、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人は、
聖書の重要な場面で主イエスといっしょにしばしば登場しています。
29節に、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」、「二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。」と書かれています。イエスの服が白く輝いたという描写は、イエスの聖なる栄光、天上の輝き、御子としての本来の姿が現れたことを示しています。
31節には、「(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる『最期』について話していた。」と書かれています。この『最後』(ギリシア語の「エクソドス」)いう意味は「死」です。)
ここで注目したいのは、モーセとエリヤが、単に過去の人物として現れたのではなく、神の栄光のうちに現れ、イエスの受難と死、そして救いの御業に関わることを語っていたという点です。
ここでモーセとエリヤが語り合っている内容は、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる『最期』→死、そして復活→『出発』についてなのです。
筆者のルカは、「エクソドス」という言葉を用いて、最後→死→復活→出発を一体にして思い起こさせているのです。そこで今日の説教題は、『最期/出発』(エクソドス)としました。聖徒の日を覚え、神の救いの御計画がモーセという一人の生涯を超えて続き、イエス・キリストにおいて新しい段階を迎えたことを学びます。
先ずは、3,500年前のモーセの生きた時代のことについて簡単にお話しします。当時、イスラエルの民はエジプトで奴隷とされていました。出エジプト記2章23節b(旧約96頁)に、「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」と書かれています。神は、民の苦しみを見、叫びを聞き、民の痛みをすべてご存じなのです。
そして、24-25節には、「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」と書かれています。神は、人々を顧み、御心に留めてくださる方です。神はモーセを選んで、イスラエルの民を救い出すためにエジプトのファラオのもとに遣わされたのです。
出エジプト記12章37節(旧約113頁)には、エジプトを出発したイスラエルの人々は、「壮年男子だけで60万人であった。」と書かれていますから、女性や子どもを加えると、3倍以上の200万人を超えた人数が奴隷の地エジプトを後にして出発したのです。その夜、主は寝ずの番をしてくださいました。神は最短コースの地中海岸沿いを進む道ではなく、シナイ半島の荒れ野にイスラエルの人々を導き入れました。主が示された約束の地に向かう旅では、荒れ野には、食べ物や飲み水が十分ではなかったので、イスラエルの民の不平が高じました。モーセは、何度も民のために神への執り成しの祈りを捧げています。
ようやく、イスラエルの民が、神に約束された良い土地を目の前にしたときの出来事が、申命記3章23-28節(旧約285頁)に書かれています。
神は、モーセが約束の地に入ることを許さなかったのです。そのことに対するモーセの応答が24-25節に書かれています。
「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と先ずモーセは、出エジプトの出来事を振り返り、主が力強い大いなる御業を見せてくださったことを賛美しています。そのうえで、「わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と、神に願っています。
しかし、神の答えは明確です。26節bに、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」というものでした。神はモーセの願いを退け、「自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。」と言っています。
神がモーセに、約束の地に入れないと告げられた理由については、民数記20章1-13節(旧約247頁)」に書かれています。
荒野において、イスラエルの民が水を求めたとき、神はモーセに7節で、『杖を取り、・・・岩に向かって、水を出せと命じなさい』と言われました。
そして11節には、モーセは「手を上げ、自分で取った杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出た」と書かれています。
すると12節で、『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人人の前に、わたしの聖なることを示さなかった。』と言われています。
モーセの何がいけなかったのか分かりますか。
モーセは、自分の過ちについて一言も語っていません。ここに、モーセの信仰の真実な姿があります。モーセが示した信仰は、願いがかなうと信じることだけではなく、願いがかなわないときにも、神に向かって祈り神の御前に立ち続けることでした。自分にはできないことがあると認めながら、それでも神の約束を信じるというモーセの信仰の姿を垣間見ることができます。
わたしたちは、熱心に祈れば、神は自分の願いを聞いてくださる、忠実に奉仕すれば神は自分の計画を成功させてくださると考えたくなります。ところが、聖書が証しする神は、わたしたちの願いをすべてそのまま実現させる神ではありません。モーセは約束の地に入ることができませんでしたが、それによって神の約束そのものが失われたわけではありません。
神は、わたしたちの願いを聞いてくださいますが、神の御計画は、わたしたちの願いの範囲に閉じ込められるようなものではないのです。
申命記3章28節(旧約285頁)に、「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」と、モーセの使命の終わりとヨシュアの新しい使命の始まりが告げられています。神はモーセに、ただそこで立ち止まって悲しむようにとは言われていないのです。モーセは、ヨシュアを励まし、力づけるように命じられました。神は、モーセの働きの最後に、次の指導者を支えるという新しい務めを与えられました。
わたしたちの人生には、モーセのように自分が完成させたいと願っていたことを完成させられないまま手放さなければならないときが必ずあります。
モーセは、自分が先頭に立って民を導くことはできなくても、次の世代が前に進めるように力を与えることはできたのです。自分には完成させることはできなかったとしても神はその未来を見ておられたのです。神の救いの御計画は、モーセの死によって終わることなく、イエス・キリストの十字架と復活において、神の救いの意味を明らかにされたのです。
ルカによる福音書9章35節(新123頁)には、「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。』という声が雲の中から聞こえた。」と、神が、預言者のモーセやエリヤではなくイエスに聞くように命じられています。
神の御業は、一人の信仰者の生涯で完結するものではありませんが、神こそが歴史を貫いてイエス・キリストにおいて救いの完成へと導かれるのです。
わたしたちの教会には、それぞれの時代に与えられた使命があります。先に召された方々のある人は、教会の土台を築くために長年祈り、奉仕してきました。ある人は、子どもたちに聖書を教え、地域の人々に福音を伝えてきました。ある人は、教会の建物を守り、信仰を伝えてきました。また、ある人は、病気や困難の中にある人を訪ね、祈り、支えてきました。
しかし、どれほど大切な働きであっても、一人の人が永遠に働き続けることはできません。わたしたちの信仰の諸先輩たちは、牧師も、役員も、教会学校の教師も、すべての奉仕者も、いつかその務めを次の人に委ねるときが来ます。
だとすれば、わたしたちは何をすべきことは何なのでしょうか。
それは、わたしたちを導いてくださった神の恵みをわたしたちが証しをして、次の世代が自分自身でイエス・キリストの御声を聞き、従っていけるようにすることです。それがわたしたちの希望なのです。
神様、聖徒の日の礼拝において、わたしたちは、これまでのこの地上の礼拝と天上の礼拝が主によって一つにされていることを覚え、感謝します。
わたしたちも代々の聖徒たちと共に、限りなく主の大いなる御名をほめたたえます。すべての者の主であるイエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン!
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