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使徒15:13-21『エルサレム会議(2)』 20261025

4 日前
読了時間: 8分

更新日:1 日前

(聖書)

アモス書9章11-15節(旧約1441頁)

使徒言行録15章13-21節(新約243頁)

 

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年10月25日の降誕前第9主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄

 

(説教要旨)

使徒言行録14章7節に、「議論を重ねた後」と書かれていますが、カトリック教会が用いている「聖書」(フランシスコ会聖書研究所訳注)では、「長い論争の後」と意訳しています。この方がその時の状況が分かりやすいかもしれません。

長い論争をしたことは、単なるガス抜きということでなく意味のあるものだったのでしょう。それからペトロの発言が始まります。

最後の11節で、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」と、ペトロが言っています。そして12節で、「すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。」と続いています。

ペテロの発言が終わると、全会衆は静かになったというのですから、長い論争をした後のペテロの証言には皆の心に届くものがあったのです。


それからバルナバとパウロが、第一次宣教旅行において、神があらゆるゆるしと不思議な業を自分たちを用いて行われて異邦人が救われたと証しをしています。

 

今日の聖書個所は13節からです。バルナバとパウロが話を終えると、ヤコブが発言しています。

主イエスの実の弟の使徒ヤコブです。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。」と言っています。

ここで、なぜここでヤコブが、ペトロと言わずに生まれながらの名前であるシメオンという名前を用いたのかは聖書に書かれていませんので想像するしかありません。文脈上からは、ヤコブはこれから旧約聖書を引用して発言をしていますから、その前にユダヤ人の伝統に根差したシメオンという名前をあえて用いて、シメオンがイエスに選ばれてペトロと名付けられたことを思い起こさせる意味があったのかと思います。

しかしここでは、そこに目を向けるよりも、シメオンすなわち主イエスが名付けたペトロの証言がヤコブの判断を支える重要な根拠になっている重みの方に注目すべきでしょう。

 

15節で「預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。」と、ヤコブは旧約聖書を引用して、現実に起こっている出来事が一致することを語っています。旧約聖書の預言者の言葉に目を向けて、神のご計画と現実の出来事が一致していることを確かめようとしたのです。


アモス書9章11-12節(旧約1441頁)を引用して、16-18節で、『その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を立て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。』と語っています。

ヤコブは、このように聖書の預言を引用することによって、神が異邦人をもご自分のもとに招こうとする意志を示されたことだと言って、神が異邦人を受け入れておられるなら、人間が神の恵みに条件を付け加えるべきではないと主張しているのです。

そして19節で、「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」と、ヤコブの判断が示されています。

 

ファリサイ派から信者になったユダヤ人が主張している、異邦人を神の民として受け入れるためには、ユダ人の文化や慣習のすべてを身につけなければならないという考えを退けたのです。異邦人をユダヤ人に変えるというのではなく、ユダヤ人と異邦人の区別をせずにユダヤ人と異邦人が一つの共同体として生きられるということ、すなわちイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるということこそが神の御心に沿って定められるべきだと言っているのです。

 

さらに、20節で、「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」と、ヤコブは、異邦人がユダヤ人と一緒に歩んでいくために配慮すべき点を付帯事項として手紙に書くことを提案しています。その理由については、21節bで、「モーセの律法は昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」と、当時のユダヤ人の大切にしている宗教的習慣への配慮をするようにと言っているのです。

これから、エルサレム会議の決定事項を教会に伝えていくことになりますが、教会においてユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることがあるだろうから、ユダヤ人の信者たちが大切だと考えているモーセの律法から四つの点については、特に異邦人も十分な配慮をしてくださいと、エルサレム会議の決議事項の付帯事項として手紙に書き記すことにしたのです。

 

当時の異邦人社会では、偶像に献げられた肉を食べることが日常的になっていました。一方、ユダヤ人にとっては、偶像に献げられた食物や血を含む肉を食べることは、宗教的に受け入れがたいことでした。

この食物規程の隔たりを乗り越えてユダヤ人信徒と異邦人信徒が共に生活し、食卓を囲み、教会として一致して歩めるようにするために、ヤコブは実践上のきめ細かな配慮をして、異邦人信徒に一定の配慮を求める四つの付帯事項を定めたのです。


これからイエス・キリストの救いの恵みによってユダヤ人信徒と異邦人信徒が、信仰共同体の中で互いに配慮しながら共に一致と秩序を保って教会の交わりを守るために、ユダヤ人信徒との障害となることについては異邦人に配慮してほしいこととして具体的な指針を示したのです。


2週に亘って学んできた使徒言行録15章のエルサレム会議の結論は、特定の一人の発言だけで決まったのではなく、聖霊の導きを求めながら関係者の多くの証言と聖書の理解に基づいて、生まれたばかりのキリスト教会における大事な救いの教理が決められたものです。

救いを律法の遵守に依存させないことを明確にしながらも、ユダヤ人と異邦人の信徒一人ひとりがキリスト者としてどのように生き、共に多様性を受け入れながらキリストを頭とするその体としての教会を形成していくための付帯事項までが決められました。


このとき教会は、エルサレム会議を開き、そこでこの問題を解決したのですが、会議を開くことは、もめごとを解決するための唯一の手段とは言えません。

会議などするとかえって対立がこじれてどうしようもなくなるということも多いので、対立があるから会議を開くというのは決して当然のことではありません。国と国との外交交渉や首脳会談においても、水面下の根回しをした上で、会議はそれを確認するためのセレモニーだというケースが多いのです。

ところが、教会は会議を開き、そこでこの問題を解決しようとしました。会議において、教会の主なる神がみ心を示し、行なって下さると信じ、会議において働かれる神の導きに委ねたのです。この精神は現在の教会運営においても生かされています。


教会は、古い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いでいます。旧約聖書の信仰と新約聖書の信仰とはつながっており、別の神を信じているのではありません。その神が、独り子主イエス・キリストによって今や新しい救いの恵みを実現して下さり、ただ主イエスの恵みによって救われる新しい神の民を興して下さったのです。


このことによって、キリスト教がユダヤ教の一分派ではなく、ユダヤ教の歴史を受け継ぎながらも、それとは一線を画する新しい教えとして自己を確立したのです。

それゆえに今やわたしたちはユダヤ人になることによってではなく、主イエスを信じる信仰によって、神の民とされ、救いにあずかることができるのです。

 

使徒言行録全体を一つの山にたとえて言えば、エルサレム会議が書かれている15章は前半と後半の二つに分ける分水嶺となる聖書箇所です。

15章を最後に主イエスの一番弟子で初代教会の中心的指導者だったペトロが姿を消します。

後半はパウロによる異邦人伝道物語が中心となってそれが現在までも続いているのです。

もっともパウロは、既に7章の終わりからユダヤ人としてのヘブライ語系の名前サウロとして教会を迫害する若者として登場しています。そしてサウロが、劇的な回心によってキリスト信者となり、さらには伝道者となったのです。そしてアンティオキア教会から長老のバルナバと共に、第一次宣教旅行遣わされ、13章9節のキプロス宣教で、「パウロとも呼ばれていたサウロ」と書かれて、ラテン語、ギリシャ語系のパウロの名前も登場していますので、サウロすなわちパウロの伝道物語はもう始まっていたと言うこともできます。

 

いずれにしても、エルサレム会議以降、キリスト教は、ユダヤ人の民族宗教という枠を超えて、全ての人々に開かれた世界宗教への道を歩み出したのです。この道が定められたことによって、キリスト教は当時のローマ帝国の全域に広まってローマの国教になります。ローマ帝国滅亡後は、中世ヨーロッパ社会の屋台骨となり、宗教改革を経て新大陸アメリカ建国の土台となりました。そして、まだ切支丹禁制の時代にアメリカからも日本にも伝えられました。

 

わたしたちが今、こうして教会に集い、洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかる者として歩むことができているのは、このエルサレム会議の決定があったからです。

エルサレム会議が、み心を示して働かれる神様への信頼のもとに行なわれ、信仰の真理を正しく受け止める決定をすることができたことによって、教会は、今もなお全世界へとみ言葉を宣べ伝えていくことができるようになっていると言っても過言ではないでしょう。

 

エルサレム会議においてみ心を示し、働いて下さった神が、わたしたちにも、同じようにみ心を示し、働いて下さるように祈り求めていきたいと思います。





 


 


 
 
 

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