あなたがたの内にある御言葉(ヨハネ15:1-11)202605242 日前読了時間: 10分(聖書)使徒言行録2章1-8節ヨハネによる福音書15章1-11節👇2026年5月24日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください20260524.3673聖霊降臨節第1主日礼拝週報.pdfダウンロード:PDF • 550KB本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年5月24日聖霊降臨節第一主日礼拝の説教要旨です。別府不老町教会牧師 尾崎二郎「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)「あなたがたの内にある御言葉」のことはヨハネによる福音書15章7節でこのように語られています。イエス様は、特にこのように教会に集まっている皆さんに向けて、「あなたがたの内にある御言葉」というように複数形で呼びかけられました。しかし、よく考えてみますと、「あなたがたの内にある御言葉」というのは一体どこにあるのでしょうか。もし、「あなたの内にある御言葉」というように、単数形で言われるのなら、より分かりやすいです。御言葉は、まさにあなたの内にあるからです。それでは、あなた方の内にあるとは、具体的には一体どこなのか。思いを巡らしてみましょう。二人三人とイエス様の名によって集められるとき、その真ん中に、イエス様がおられます。その真ん中に御言葉があるのです(マタイ18:20)。しかし、その情景を思い描きますと、その二人三人と、御言葉との間に距離があることがわかります。イエス様を中心にして二人三人がおしくらまんじゅうのように居れば、話は別ですが、そんな風にしていれば、息が詰まって、かえって不自由になってしまいます。ここで私たちは、今、イエス様が天におられて、私たちの目には見えないことの恵みに気づかされます。イエス様は今、見えない方だからこそ、私たちは おしくらまんじゅうのようにならなくても、私たちの内にイエス様がいてくださることが出来るのです。言い換えれば、御言葉が私たちの内にあるということは、同じ御言葉が私たち一人一人に分け与えられているということです。このことは、同じ聖霊が私たち一人一人に分け与えられていることと同じです。使徒言行録2章1節に、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。と書かれています。今日はペンテコステ、教会の誕生日です。今読みましたように、同じ聖霊がお一人お一人に分け与えられて、教会が誕生した日のことであります。今年のペンテコステは、不老町教会では金森一雄先生が説教されますので、そこで、この使徒言行録の箇所が読まれるかはわかりません。しかし、金森先生と私とが、同じ聖霊を分け与えられ、御言葉を分け与えられていますので、この時、どこででも同じような説教がされることは確実なのです。以上のように、最初は「あなたの内にある御言葉」ということで自分一人の内側に宿っていた御言葉が、教会がはじめられたことによって、その集まりの中で、「あなた方の内にある御言葉」というように、広がっていき、又、深まっていったということです。教会というのは御言葉を私たちが分かち合うために、イエス様が用意してくださった、まことに大切な場所なのです。そして御言葉を分かち合うときに最も大切なのは愛ということです。ヨハネによる福音書 15章 9節に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と、このように今日の聖書箇所でも愛が語られています。聖書が語る愛とは、とても重くて、また大変なことです。私たちが御言葉を分かち合うには、愛し合うことが必要ということは、体験的にもお分かりになっていることでしょう。それでは、この私の内、私だけの内にある御言葉というのは、分かち合う御言葉に比べて、一段劣ったものなのでしょうか。いえ、そんなことはないのです。むしろ、時には、御言葉を分かち合うことに疲れて、ただ一人で、この私の内に御言葉をお迎えして御言葉を一人で味わうということも、又、大切な時です。言い換えれば、私の内にある御言葉と、私たちの内にある御言葉というのはどちらも必要不可欠であり、お互いに支えあっているということです。私の内にある御言葉というとき、御言葉は、この私の思いや、時には わがままをも、とことん聞いてくださる、個人的な相談相手のような存在です。そんな風に、御言葉を個人的な相談相手としていた人物は、実は、旧約聖書においてよく見受けられます。例えば、第一に思い浮かぶのがダビデ王です。彼は政治や戦いに疲れ果てることもあったでしょう。そんな時、彼はいつも「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください、私を見捨てないでください」(詩編22:11)と、主に向かって一対一で嘆き、慰めを求める時を過ごしたのでした。もう一人、エレミヤは預言者でしたが、涙を流しながら主に向き合い次のように告白しました。エレミヤ書 20章 9節に、「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」と書かれています。エレミアにとって主は熱愛している恋人のように彼から離れることがありませんでした。旧約の信仰者にとって、主イエスはこのように、一対一で愛し合っている、愛人であり慰め主であり、相談相手であり、救い主でした。主イエスが私たちを愛しておられるとは、まさにお一人お一人を命がけで愛し、救おうとされていることなのです。私たちは、その主イエスから向けられる熱烈な愛に、気付きさえすれば救われます。そして、新約聖書で思い浮かびますのは、トマスのことです。いわゆる疑い深いトマスのことです。彼は、命がけで愛してくださる主イエスを、命がけで愛し返した人物です。彼は、ある時、「私たちもそこに行ってイエス様と共に死のうではないか」と発言しました(ヨハネ11:16)。彼にとって主イエスは、将に熱愛関係にある愛人のようなものでした。以上のように、私たち一人一人が、それぞれに一対一で主イエスと愛し愛される関係を持つことは必要不可欠なことなのです。しかし、新約聖書では、それに加えて、新しく、教会という場所のことが記されています。私たちは教会で、主イエスの愛を分かち合い、「お互いに愛し合いなさい」という御言葉を聞いて、その愛は一対一の愛から、分かち合われる愛へと、広がり深められていくのです。今日のヨハネ福音書では、この教会が、ぶどうの木にたとえられています。ぶどうの木は主イエスであり、その枝は私たち一人一人なのです。ぶどうの枝として、教会につながるということは、どういうことなのでしょうか。それは具体的に言えば、イエス様に愛されている一人一人が、その愛に導かれてイエス様の差し出す手を、握りしめることと言えるかもしれません。このことは、今、問題になっている、宗教2世のことと比較すればよく分かります。私たちがイエス・キリストに愛され教会につながるということは、生まれた家がキリスト教だったということが条件でもなければ、特権でもありません。教会につながるということは、誰にでも等しく開かれた道です。野生のブドウの木を見ていればそのことがよくイメージできるでしょう。ぶどうの枝は四方八方に張り巡らされていきます。そこには、大木のような1本の屹立した幹もありません。ぶどうの枝は、平等に張り巡らされていきます。そして、お互いに支えあっているように見えます。もし、枝が一か所で切断されたら大変です。そこから先のすべての枝が枯れてしまいます。ぶどうの枝は、キリストという養分を十分に摂取できるように、お互いに配慮しあい、助け合って、生かされていくようです。このようにぶどうの木のたとえはわかりやすくイメージしやすいので、皆さんお好きでしょうし、子供たちも喜んで聞く話であります。でも、このブドウの木の話を聞いただけで、教会に行ってみようと考える人が今は少ないようです。何十年か前の昔には、この教会に人々が声かけあってたくさん集まった時代があったそうです。今でもたくさん集まっている教会はありますが、その昔のほうが、教会に人が集まりやすかったことは事実でしょう。時代が変わったといえばそれまでですが、このように変化した理由も、この聖書にちゃんと書かれていることが、今日の聖書箇所をよく読んで分かりました。実は、今日のブドウの木のたとえは、教会のことをたとえていますので、教会の現実をも 語られているのです。ヨハネ福音書 15章 2節に、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とあります。私たちは、声かけあってたくさん教会に集められるのは良いのですが、よく聞く耳を持たないと、こういった聖句を読み飛ばしがちになります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」これはどういう意味なのでしょうか。「教会につながっても、実を結ばないならば、その人は取り除かれるのか、」と受け止めれば、なんと教会とは冷酷で無慈悲なところなのか、というようになってしまいます。しかし、いうまでもなく、主イエスが言われることはそういうことではないのです。そんな風に主イエスのいわれることを誤解しないために、私たちはますます御言葉を自分の内にお迎えしなくてはなりません。それは、主イエスの愛をますます知っていくということでもあります。まず、主イエスが言われる「実を結ぶ」というのはどういうことなのでしょうか。それは、自分自身が教会に貢献するとか、立派になるとか、自己実現できたとかいうことではないのです。むしろ、それとは逆のことです。「実を結ぶ」ということは、自分の才能や時間や人生を、隣人のために使って、隣人が実を結ぶように、務め、配慮していくということです。自分を無にして、他者のために働くということ、すなわち隣人を愛するということです。それはキリストの道を歩んでいくということでもあります。そして、自分がキリストの道を歩んでいくとき、確かにこの自分が実を結ぶということが見られます。このことはここで私が説明するよりも、お隣りにおられるクリスチャンの人生をご覧になれば、一目瞭然です。その方が、何よりも、キリストの枝として、キリストの愛を証されているのです。教会の中に、この世の評価や成功を持ち込んでしまいますと、私たちは「実を結ぶ」ということの聖書的な意味から、自ずと遠ざけられてしまいます。このことは大変危険なことでもあります。主イエスが、「わたしの愛にとどまりなさい。」という風に言われているのも、そこら辺の危険性を十分に承知しておられるからでしょう。私たちは聖書の御言葉を一字一句読み飛ばすことなく、丸ごと、自分の内に入れていくほうが安全で幸いなのです。そして、御言葉を生きる自分自身が、ぶどうの枝となって、隣人たちと、御言葉を分かち合い、キリストの愛を証していくことこそが、教会の営みに他ならないのです。私たちは、今日も明日も、教会の頭、ぶどうの木である主イエスにつなげられて、キリストの道を前へと1歩づつ進めてまいりましょう。祈り今日は、この主の日に遠くから近くから愛する兄弟姉妹たちを、キリストの会堂へと集めてくださりありがとうございます。御名を賛美します。父なる神よ、あなたは、私たちに御子イエスをおつかわしになり、「互いに愛し合いなさい、私の愛にとどまりなさい」と言われました。その愛の業がいかに大変であろうと、私たちが常にそして最後まで、御言葉により頼んで、御言葉に従い、愛の実を結ぶことが出来るようにしてください。お互いに配慮しあい、祈りあう教会としてください。あなたの御国を目指す私たちが、ますます聖書に親しみ、どこにいましても、思いを一つにして、再会の時を待ち望むことが出来ますように。
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