モーセの40年(使徒7:17-43) 202605175月17日読了時間: 8分更新日:4 日前(聖書)ホセア書13章4節-6節(旧約1406頁)使徒言行録7章17-43節(新約225頁)👇2026年5月17日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください20260517.3672復活節第7主日礼拝週報.pdfダウンロード:PDF • 554KB 本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年5月17日復活節第7主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄1.モーセ誕生後の40年 使徒言行録7章17-19節に、「神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増えてエジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者になるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。」と、エジプトのイスラエルの民が大変多くなったことと、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位についたことをステファノが語っています。 モーセの死後、正確には分かりませんが200年以上たっていた頃のことだと推察されます。エジプトを飢饉から救ってくれた「ヨセフのことを知らない王」と、ステファノが説教の中で言っているのは、イスラエル民族の継承伝説が忘れ去られていたということを伝えようとした表現です。時を経て、食糧危機から救ったヨセフへの恩義を知らないエジプト王の時代となりました。急増するイスラエルの民を「祝福の担い手」と見ているのではなく、「脅威」として見るようになっていました。そして20節でステファノは、「このときに、モーセが生まれたのです。」と表現しています。神様がモーセを誕生させたと伝えたかったのでしょう。このように神様が介在されているイスラエルの歴史を振り返りながら、今日の説教箇所を読み進めて参りましょう。続けて20節に、「神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプトのあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。と語っています。モーセが、生まれながらに神様に守られて誕生したことと、こともあろうに王の名によって捨てられたモーセをファラオの王女が拾い上げて育てられたのです。 こうして、イスラエルの民がエジプトでの生活の困難さを神様に訴えると、神様はイスラエルの民の嘆きを聞かれて、モーセというイスラエルの民のリーダーとなる人を誕生させ、神様の庇護のもとでエジプトの教育を受けて成長したのです。2.40歳以降の第二区分そして23節に「40歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。」と書かれています。 聖書で4という数字は、「十分に長くて意味のある一区切り」とか、「しっかり変わるために必要な時間」という象徴的な意味があります。ステファノは、「四十」という言葉を23節と30節で2回用いています。それによって、モーセの120年の生涯を40年単位で三区分に分けて語っています。最初の第一区分の四十年のモーセの生涯においては、誕生の時から神様の介在があったことが強調されています。 そして23節からは、第二区分の生涯としてステファノが語っていきます。24節では、イスラエルの息子(子孫)たちの一人が虐待されているのを見て「相手のエジプトの人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。」と語られています。25節には、「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。」と書かれています。ここでは、「助けようと思い立ち」(23節)、「彼が理解してくれると思いました」(25節)と、モーセ自らの判断や思いが強調されています。そこには、神様の言葉を聞いたとか、神様に導かれたといった言葉はありません。そして27-28節には、「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。」とイスラエル人の仲間から反発を受けたことが語られています。 神様に喜んでいただけることをしたと自分で思って行ったことでも、周囲の人から理解してもらえないことがあります。モーセは、仲間だと思っていたイスラエル人がモーセに反発している言葉を聞いて、エジプトを逃げ出しています。29節に、「ミディアン地方に身を寄せ、二人の男の子をもうけました。」と書かれています。モーセが、荒野のミディアンでの逃亡生活の間に、二人の男の子が与えられ、自らの家庭を建て上げるときとなったのです。ミディアンでのモーセは、祭司エトロの指導を受けて羊飼いとして過ごしました。王宮で教育を受けたモーセが、今度は羊を導く者として訓練されました。見方を変えればモーセにとって自分の家族を形成していくときが与えられたともいえます。モーセが、地位や自信を失って、人間の熱心さだけでは神様の救いは完成しないことを知り、神様に依存する器へと造り変えられるための歩みの始まりです。モーセが神様の召命を受ける前の準備段階の出来事として、ステファノはこのように語っているのです。 3.80歳以降の第三区分30節以下は、モーセの八十歳から百二十歳までの最後の四十年です。モーセが逃れて、家庭を築き上げた荒野に近いミディアン地方の「燃える柴」の中に主の天使が現れました。そしてモーセは神様の声を聞きました。32-34節には、『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』、『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。・・わたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼を救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう』とモーセが聞いた主の声が書かれています。35節で、人々が『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」と、ステファノは改めて神様がお遣わしになったということに重点を置いて強調して語っています。神様はモーセの逃亡の場所を召命の場所に変えられました。 36節でステファノは、「この人がエジプトの地でも紅海でも、また40年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。」と語り、そして38節で、申命記18章15節(309頁)を引用して『わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる』、「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」と、モーセが神と人との間に立ったことと、命の言葉としてわたしたちに法を与えたことをステファノが説明しています。39節には、「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。・・モーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』と、出エジプト記 32章1節から引用して、イスラエルの人たちの不従順に至る過ちを指摘しています。「なつかしく思い」という言葉は「後ろを振り返る」という意味です。イスラエルの民は、エジプトを脱出して、海の水が分かれ、海の中の乾いた所を進んで行った後でしたのに、後ろを振り返って、エジプトでは奴隷だったけれど美味しいごはんがたくさんあったなどと、エジプトをなつかしんでいたのです。そして41節に、イスラエルの民が雄牛の像を造ったことが書かれています。そして、43節では、アモス書5章25-27節(1436頁)を引用して、『お前たちは拝むために造った偶像、モレクの神輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、私はお前たちをバビロンのかなたへ移住させる。』と語っています。 先ほどお読みいただいた、ホセア書13章4-5節には、「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。荒れ野で、乾ききった地で、わたしはあなたを顧みた。」と、出エジプト記を用いて、神様がエジプトの奴隷生活から導き出してくださった、荒れ野で顧みてくださった、と神の恩寵が強調されています。しかしイスラエルの民は恩知らずでした。ホセア書13章6節には、「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた」と書かれています。「困った時の神頼み」とよく言われますが、困った時は、大いに神様に依り頼めばよいのです。「困った時の神離れ」というのも困るのですが、本当に困るのは「困らない時の神離れ」です。何といっても、わたしたちが神様から離れてしまうことが一番困るのです。神様は、わたしたちにキリストに対する恩を思い起こさせてくださり、この恩の中で生きよ。とわたしたちを招いてくださる方なのです。 今日のステファノの旧約聖書を用いた説教は、主イエス・キリストの十字架は、わたしたちの多くの罪を赦して余りあるほどにあふれていることを思い起こさせてくれます。恩知らずと言えば、わたしたちもそうなのではないでしょうか。神様を忘れ神様から離れ、罪を犯してしまうイスラエルの民と何ら変わりません。今日の説教箇所では、モーセの人生を40年ごとに三区分に分けて、神様の絶えざる愛の御計画の中でモーセの人生が語られています。その中にあって、人間の恩知らずな行動が語られていました。皆さんはこれをどのように受け止められましたか。神様の存在を確認していただくことができたでしょうか。しかし、わたしたちはこうして礼拝において説教を聴くたびに、聖餐の食卓を囲み聖餐に与るたびに、神様の恩がいかに深いかを思い起こしているのです。わたしたちが、神様の愛と恵みを受け取って、自らの罪を悔い改め、罪の赦しの道を共に歩んでいくことができますように導いてください、わたしたちがへりくだることができますように、自らの罪を認め、悔い改めることができますようにとお祈りします。
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