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わたしの憩う場所(使徒7:44-53) 20260531

  • 7 時間前
  • 読了時間: 9分

(聖書)

詩編103編8-13節(旧約940頁)

使徒言行録7章44-53節(新約226頁)


 👇2026年5月24日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください


本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年5月31日の聖霊降臨節第2主日礼拝の説教要旨です、杵築教会伝道師 金森一雄


1.ステファノの説教

 

わたしたちはここまで、使徒言行録7章のステファノの説教から、7章20節以降の「モーセの120年の生涯」を40年単位で三区分に分けて学びました。

モーセの第一区分の生涯では、エジプトの王家で養育されて成長したこと、そして23節からの第二区分の40歳以降の生涯では、自分の兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ち(23節)、虐待されているイスラエル人を助けて、相手のエジプト人を殺してしまったことから、メディアン地方への逃亡生活が始まりました。モーセは、その間に二人の男の子をもうけています(29節)。

ミディアン人は、シナイ半島からアラビア北西部あたりにいた遊牧系の民です。モーセは宮殿生活から荒野に近い地域での厳しい逃避生活に移されて寄留者として生活したのです。なお、出エジプト記2章22節には、モーセが長男が生まれるとゲルショム(異国にいる寄留者という意味)と名付けたと書かれています。

ミディアン地方は、エジプトの政治的圧力から遠くて逃亡者モーセにとっては、安全な羊飼いの社会、家族と一緒に長い時間過ごせる、子どもを育てるのに相応しい文化の中に身を寄せることができたことになります。

30節から、モーセの第三区分、80歳以降の生涯が始まります。モーセはシナイ山に近い荒れ野で召命を受けました。ステファノは、「この人(モーセ)がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。」と語っています。

それから、42節b以降でモーセの荒れ野での召命後の生涯について語ります。

ステファノは、アモス書5章25-27節(旧1436頁)を引用しています。イスラエルの民が、偶像礼拝に陥ったことを咎め、「だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる」(43節)と書かれていることを告げています。

 

2.幕屋と神殿

 

本日わたしたちが与えられた聖書箇所は、使徒言行録7章44節の「わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。」と書かれているところからです。この幕屋とは、いわば移動式のテントのことです。

ステファノが、バビロン捕囚前のイスラエルの民が偶像礼拝の罪に陥っていた当時の様子を語ります。

イスラエルの民がエジプトをなつかしく思って(39節)、モーセの身の上に何が起こったのか分からない(40節)と不安を感じて若い雄牛の像を造ったと(41節)、イスラエルの民の「偶像礼拝」に陥った歴史を語ったその直後に、44節の「証しの幕屋」の話をステファノが語ったことには大切な意図があるのです。


幕屋について 旧約聖書では、「臨在の幕屋」と言われています。その名の通り、神とそこでお会いできる場所、と考えられていました。45節には、「それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。」と書かれています。

これは、主なる神様がご自身の臨在のしるしを民に与えていたのに、民はそれでも神に背いたという対比を明らかにするレトリック(表現手法)です。

つまりステファノは、イスラエルの民には、一方では、神が命じた「証しの幕屋」があったが、他方では、モレクの神輿やライファンの星(天体の偶像)を担ぎ回った(43節)と、イスラエルの民が不信仰に陥ったことを強調しているのです。

 

すなわち、43節の「捕囚」の話と44節の「幕屋」の話では、話題が飛んだように思えますが、「神は真実だったのに、民は繰り返し逆らった」ということにテーマがあるのです。すなわち、モーセは、主なる神様から出エジプト記25章(旧135頁)で、神様の導きと神の契約の象徴となる幕屋建設の指示を受けました。それなのにイスラエルは、その幕屋を持ちながら偶像にも従った。だから追放されたというのがステファノの論旨なのです。

このあとステファノは、神殿批判へ進みます。神様は幕屋の時代にも民と共におられた。ダビデの時代までそこにあった。と語っています(45節)。

サムエル記上4章3節(旧約433頁)に、ペリシテ人との戦いに苦戦した際、契約の箱を運んで来れば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。と思ったのですが、結果は大敗北で、契約の箱も奪われてしまいました。

ところが箱を奪ったペリシテ側では、次々と不幸が起こります。

これではかなわないと、契約の箱がペリシテ人からイスラエルの民に突き返されたということを「ダビデの時代まで」という言葉が想起させているのです。

そして最終的には、神はわたしたちが考えるような神殿という場所に限定されないという核心に向かうのです。

 

3.ダビデとソロモン

 

ステファノが46-47節で、「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。」と語っている通り、ダビデ王は、その後神殿建設を計画しますが、実際にその計画が実現したのはダビデの息子のソロモンの時でした。

ソロモンが建てた神殿が第一神殿です。神殿の中に、契約の箱が安置されて、移動式の幕屋は必要なくなりました。ところがこの第一神殿は、後にバビロニアによって破壊されて、イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連れて行かれます。そして数十年後、帰還した人たちが第二神殿を再建します。

その第二神殿は、新共同訳聖書の後ろの付録「聖書について」の(32)頁の1行目に、「周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、りっぱな建造物であった」と書かれています。人々の前にそびえたっていたのです。

ところが、神殿で神を礼拝するはずなのに、神殿自体を礼拝してしまうことになりました。信仰の証し自体が消えてしまったのです。


4.わたしの憩う場所

 

48-50節でステファノは、イザヤ書66章1-2節を引用しながら、けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。「主は言われる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。』」と語っています。

幕屋それ自体が大事なのではありません。幕屋が目に見える形であることによって、何か大事なものを表していることになります。幕屋は何かを証ししているのです。幕屋の中には箱があり、その中には十戒の石の板が納められていました。イスラエルの人たちは、その幕屋を見るたびに、神様が自分たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださり、自分たちが十戒を授けられた神様の民であるということを思い起こしたのです。

大事なのは場所ではないのです。

 

イザヤ書66章2節後半に、「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」と書かれています。

「苦しむ人」とは、自分の弱さや限界を自覚している人です。高ぶって「自分は大丈夫だ」と思っている人ではなく、「自分には足りないものがある」と認めている人です。

「霊の砕かれた人」とは、高慢さが打ち砕かれ、へりくだった心になっている人という意味です。自分の正しさや功績に頼るのではなく、神様の前で謙虚になっている状態にある人です。

「わたしの言葉におののく人」とは、単に怖がるというより、神様の言葉を軽く扱わず、真剣に受け止める人という意味です。すなわち、「聞くだけで終わり」ではなく、その言葉に心を揺さぶられて従おうとする姿勢の人に神様が憩うのです。神様が「わたしの憩う場所」だと仰ってくださるのです。

 

5.心と耳に割礼を受けていない人たち

 

そしてステファノは51-52節で、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」と語っています。

 

「あなたがた」とは、彼らのことだけでしょうか。自分はこの「あなたがた」の中に入っていないと、胸を張れるでしょうか。「あなたがた」とは誰のことなのせしょうか。ステファノがここで指摘しているのは、単なる心と耳の割礼の問題ではありません。


「その方」とは、イエス・キリストのことです。先祖たちが神に逆らい続けたのと同じように、あなたがたも「その方」を十字架につけて殺してしまった。先祖たちと同じだとステファノはイスラエルの人々の罪を指摘しているのです。

そしていよいよ、聴いていた人たちの怒りが爆発してしまい、ステファノは、石を投げつけられて殺されてしまいます。

 

エレミヤ書4章4節に、「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。」と、9章26b節で、「心に割礼のないイスラエルの家を罰する。」と、主なる神様が言われています。

エレミヤ書6章10節に、「誰に向かって語り、警告すれば、聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で、耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも、それを侮り、受け入れようとしない。」と書かれていて、無割礼の耳のことが語られています。神様の言葉を受け入れることができない耳です。こうしてステファノは、彼らが聖霊の語りかけに抵抗していると指摘します。

旧約から一貫して、「割礼=単なる肉体の儀式では不十分」という流れがあります。ステファノはそれを引き継ぎ、あなたがたは外側だけで中身が変わっていない、外面的宗教ではなく、内面的変化が必要だと批判しています。

旧約の預言者たちが迫害された歴史を踏まえ、「あなたがたも同じことをしている」と告発し、最終的にメシアを拒んだことを、説教の頂点として示しているのです。

 

ステファノは、この説教の中で、アブラハムにしても、ヨセフにしても、モーセにしても、いろいろなところへ行ったけれども、その場その場で神様にお会いし、導かれてきたではないか、と言っているのです。

イスラエルの民は、ある時は東の果てのメソポタミアに、別の時は西の果てのエジプトにいました。そこにも神様がおられたではないか。それなのに、あなたがたは立派なエルサレム神殿を拠り所にし、ここだけにこだわっているけれど、そうではないのだと、ステファノはまさに「場所の問題」を指摘しているのです。


つまりステファノの説教の全体の流れは、神様は神殿以前から働いていたこと。イスラエルは昔から神様に従わずに逆らってきた。イスラエルが、神殿そのものを絶対視するのは間違いであり、あなたたちも今、神が遣わした者(イエス)を拒んでいる。という構成になっているのです。


すなわち、ステファノは、「神はどこにおられるのか」という問いに対し、「神は建物の中ではなく、御言葉に聞き従う人々の中におられる」と答えているのです。


「ああ、そうだったのか、キリストを十字架につけてしまったのは、ステファノを殺してしまったユダヤ人たちだけではない。自分もそうだ」と、受けとめる時がやって来ます。そして、悔い改めはここから始まるのです。


イエス・キリストの十字架は、とても重いものです。全人類の罪が十字架を背負うその肩にのしかかったのです。わたしたちのすべての重荷を、主イエス・キリストが背負われます。そして赦しが起こります。キリストが十字架ですべてを背負ってくださったからです。



 

 
 
 

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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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