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わたしの憩う場所(使徒7:44-53) 20260531

  • 5月31日
  • 読了時間: 9分

更新日:1 日前

(聖書)

イザヤ書66章1-2節(旧約1169頁)

使徒言行録7章44-53節(新約226頁)


 👇2026年5月31日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年5月31日の聖霊降臨節第2主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


1.ステファノの説教


わたしたちはここまで、使徒言行録7章のステファノの説教から、7章20節以降の「モーセの120年の生涯」を40年単位で三区分に分けて学びました。

モーセの第一区分の生涯では、エジプトの王家で養育されて成長しました。

そして23節からの第二区分の40歳以降の生涯では、自分の兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立って(23節)、虐待されているイスラエル人を助けたが虐待していたエジプト人を殺してしまいました。そのためメディアン地方に逃亡する生活に一変して、「寄留者としての生活」を始め、そこで二人の男の子をもうけた人生を過ごします。

それから30節からの第三区分の80歳以降の生涯が始まります。モーセはシナイ山に近い荒れ野で召命を受けました。36節に「この人(モーセ)がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。」と、ステファノが語っています。

そして、バビロン捕囚前のイスラエルの民が偶像礼拝の罪に陥っていた当時の様子について、直前の39節で、イスラエルの民がエジプトをなつかしく思ったことと、40-41節ではモーセの身の上に何が起こったのか分からないと不安を感じて若い雄牛の像を造ったことが語られて、イスラエルの不信仰を指摘しています。

 

それから42節b以降では、アモス書5章25-27節(旧1436頁)を引用して、イスラエルの民が、偶像礼拝に陥ったことを咎め、「だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる」(43節)と語っています。

こうしてステファノの説教において、イスラエルの歴史を整理して述べながら、土地にこだわるユダヤ人の信仰の問題点を指摘して、神の恵みの権能の下に生きるよう説教しているのです。

 

2.幕屋と神殿


使徒言行録7章44節aに、「わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。」と書かれています。幕屋とは、いわば移動式のテントです。そして44節bでステファノは、「これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。」と、旧約聖書で「臨在の幕屋」Tabernacleと言われて、神様とお会いできる場所と考えられていた幕屋の由来を説明しています。

ここでは、43節の「捕囚」の話と44節の「幕屋」の話が続いていますので、話題が飛んだように思えるかも知れませんが、ステファノは、一方では、神殿と神殿崩壊後には神が命じた「証しの幕屋」があったが、他方では、イスラエルの民がモレクの神輿やライファンの星(天体の偶像)を担ぎ回った(43節)と語って、主なる神様がご自身の臨在のしるしを民に与えていたのに、イスラエルの民はそれでも神に背いたという対比を明らかにしています。

 

45節に、「それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。」と説明されています。

そして46-47節で、「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。」と語っています。

ダビデ王は、その後神殿建設を計画しますが、実際に神殿建設計画を実現したのはダビデの息子ソロモンの時でした。

ソロモンが建てた神殿が第一神殿です。神殿の中に、契約の箱が安置されたことで、移動式の幕屋は必要なくなりました。ところがこの第一神殿は、後にバビロニアによって破壊され、イスラエルの主だった人たちは異国の地に連れて行かれます。そして数十年後、帰還した人たちが第二神殿を再建します。

第二神殿は、「周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、りっぱな建造物であった」と書かれています(聖書の付録「聖書について」の32頁)と書かれています。神殿が人々の前にそびえたち、ユダヤ人たちは神殿で神を礼拝するはずでしたが、場所にこだわっていたユダヤ人たちは神殿自体を礼拝してしまうことになるのです。それによって人々の信仰の証し自体が消えてしまったのです。

 

3.わたしの憩う場所


48-50節でステファノは、イザヤ書66章1-2節aを引用して、「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』」と語っています。


幕屋それ自体が大事なのではありません。幕屋は目に見える形であることによって何かを証ししています。幕屋の中には箱がありました。その中に十戒の石の板が納められていました。イスラエルの民は、その幕屋を見るたびに、神様が自分たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったこと、自分たちが十戒を授けられた神様に選ばれた民であることを思い起こしたのです。それが礼拝の根源になければ神様はお喜びにならないのです。

ですからステファノは、「わたしの憩う場所」とは地理的、物理的な場所ではないと言って、神様は神殿に限定されることはないと語って、信仰の核心へ向かっていくのです。

 

本日、わたしたちに与えられている旧約聖書のイザヤ書66章2節bには、「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」だと書かれていますが、ステファノはこの箇所は引用していません。ステファノには、自分自身のことだという思いがあったからあえて触れなかったのかもしれません。

「苦しむ人」とは、自分の弱さや限界を自覚している人です。高ぶって「自分は大丈夫だ」と思っている人ではなく、「自分には足りないものがある」と認めている人です。

「霊の砕かれた人」とは、高慢さが打ち砕かれ、へりくだった心になっている人という意味です。自分の正しさや功績に頼るのではなく、神様の前で謙虚になっている状態にある人です。

「わたしの言葉におののく人」とは、単に怖がるというより、神様の言葉を軽く扱わず、真剣に受け止める人という意味です。

すなわち、「聞くだけで終わり」ではなく、その言葉に心を揺さぶられて従おうとする姿勢の人こそが、神様の「安息の場」であるとイザヤ66章1節に書かれています。ステファノは、それを「わたしの憩う場所」(使徒7:49)であると言っています。ギリシャ語の原典を直訳しますと「休みの場所」です。

神様は、休みの場所、憩う場所は、人間の心の中にあると言っているのです。

 

4.心と耳に割礼を受けていない人たち


「わたしの憩う場所」についてステファノはここではこれ以上語らずに、51-52節で、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。

あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」と、聴衆を告発しています。

 

「心と耳に割礼を受けていない人たち」については、エレミヤ書4章4節(旧1180頁)に、「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。」と、また9章25節b(旧1194頁)で、「すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し、また、心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。」と、主なる神様が言われている箇所があります。

さらに、エレミヤ書6章10節(旧1180頁)には、「誰に向かって語り、警告すれば、聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で、耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも、それを侮り、受け入れようとしない。」と、神様の言葉を受け入れることができない心と耳の無割礼のことが語られているのです。

 ステファノは、彼らが聖霊の語りかけに抵抗していることを指摘しているのです。

旧約から一貫して、神様を礼拝するのには、外面的な「割礼=単なる肉体の儀式」だけでは不十分という考えがあったので、旧約の預言者たちが迫害された歴史を語り、「あなたがたも同じことをしている」と告発し、最終的にメシアを拒んだことを説教の中で語っているのです。


「あなたがた」は外側(うわべ)だけで中身が変わっていない、外面的なものではなく、内面的変化が必要だと説教しています。「あなたがた」とは、彼らのことだけでしょうか。「あなたがた」とは誰のことなのでしょうか。自分はこの「あなたがた」の中に入っていないと、胸を張って言えるでしょうか。

ステファノがここで指摘しているのは、単なる心と耳の割礼の問題ではありません。「その方」とは、イエス・キリストのことです。「あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」と言っています。先祖たちが神に逆らい続けたのと同じように、あなたがたも「その方」を十字架につけて殺してしまった。あなたがたは、先祖たちと同じだ。とステファノはイスラエルの人々の罪を指摘しているのです。そしていよいよ、聴いていた人たちの怒りが爆発してしまい、ステファノは、石を投げつけられて殺されてしまいます。

 

ステファノの説教では、アブラハムにしても、ヨセフにしても、モーセにしても、いろいろなところへ行ったけれども、その場その場で神様にお会いし、導かれてきたではないか、ある時は東の果てのメソポタミアに、別の時は西の果てのエジプトにいたけれど、そこにも神様がおられたではないか。あなたがたは立派なエルサレム神殿を拠り所にし、ここだけにこだわっているけれど、そうではないのだ。と、ステファノはまさに「場所の問題」を指摘しているのです。

 

すなわち、ステファノの説教の全体の流れは、神様は神殿以前から働いていたのに、イスラエルは昔から神様に従わずに逆らってきた。イスラエルが、神殿そのものを絶対視するのは間違いで、あなたたちも今、神が遣わした者(イエス)を拒んでいる。と、人々の誤りを正そうとする構成になっているのです。


「キリストを十字架につけてしまったのは、ステファノを殺してしまったユダヤ人たちだけではない。自分もそうだったのか。」と、受けとめる時がやって来ます。そして、わたしたちの悔い改めはここから始まるのです。イエス・キリストの十字架は、とても重いものです。全人類の罪が十字架を背負うその肩にのしかかったのです。わたしたちのすべての重荷を、主イエス・キリストが背負われます。そして赦しが起こります。キリストが十字架で、すべてを背負ってくださったからです。


主から「わたしの憩う場所はどこにあるのか。」と聞かれたとき、ここにわたしがおります。どうぞわたしの心の宮にお入りくださいとお答えしたいと思います。

ヨハネの黙示録 3章20節には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と書かれています。

わたしたち一人一人が、ご自分の心の扉を内側から自ら開けてください。そうすれば神様はあなたのところにお入りになります。

今日はそのような祈りの気持ちを込めて、説教題を「わたしの憩う場所」とさせていただきました。

 


 

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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