すべての人の主(使徒10:34-48) 20260816
- 8月16日
- 読了時間: 8分
更新日:1 日前
(聖書)
イザヤ52:7-10(旧約1148頁)
使徒10:34-48(新約233頁)
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年8月16日聖霊降臨節第13主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
使徒言行録10章34節には、ペトロが「口を開いて」と書かれているところから始まります。その前の33節bでコルネリウスがペトロに、「主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」と謙遜な姿勢を示して語っているのを見て、ペトロが大切なことを改めて人々に語り始める気持ちが表れるように、「口を開いて」という言葉をわざわざ挿入しているのです。
そして、「わたしはよく分かった。神は人を差別されない方である(分け隔てなさらない方である)」と、一番大切な福音を告げています。「分け隔てをする」というのは、「外見の姿」や「人の顔」で人を評価・判断することで、「差別する」という意味です。
外見の姿とは、性別、民族の違い、体や心の障害、職業、社会的地位、家柄や生い立ち、経済力、学歴などのことです。人は、外見の姿を知るとその人のことが分かったような気になるものです。そういう思いがある限り、わたしたちの心の中には、人を分け隔てする思いが根強くあるということになります。
それではこの社会のいろいろな差別はなくなりません。難しいことを言うようですが、「外見の姿」や「人の顔」で判断することから真に解放されなければ、人間の平等がどんなに叫ばれても建前だけのことになります。
ペトロは、神様は人を「分け隔て」なさらない、「外見」で人を判断されたりはしないということは知っていたようです。
しかし当時は、神ご自身がユダヤ人を選民とされ、救いはユダヤ人のみに与えられていると考えられていましたから、ペトロはユダヤ人と異邦人の区別をするのは、当たり前だと思っていたのです。
人は誰でも、自分が分け隔てをしている時には、自分が差別をしているとは思わないものです。ところが、ペトロはここで、ユダヤ人の間で常識だと思われていた民族の分け隔てを乗り越えたのです。
10章11-33節に書かれていたように、ペトロがヤッファで見た幻の中で、大きな布のような入れ物にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っているのを見ました。そして、「ペトロよ、・・・食べなさい」、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という声を聞きました。
それから謙遜な姿で『神の前にいる』コリネリウスの真実な姿と出会うことによって、ペトロは変えられたのです。
35節でペトロは、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と語っています。
異邦人であっても、神を畏れて正しいことを行う、つまり神を信じて従うならば、神がご自分の民として受け入れ、救いにあずからせて下さろうとしているという神の御心を受け入れたのです。
そして36節でペトロは、「神がイエス・キリストによって」と言って、「この方こそ、『すべての人の主』です」とつけ加えて強調しています。
37、38節aでは、「平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉とは、「ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事」であり、それは「ナザレのイエスのこと」だと語っています。
主イエス・キリストが、ユダヤ人の間に人として遣わされて、十字架と復活による救いのみ業を成し遂げて下さった異邦人をも含めた『すべての人の主』であると、はっきりと告げたのです。
そして38節bでは、主イエスはユダヤ人として、ユダヤ人の地にお生まれになり、「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」と、三位一体の神がイエスと共におられることをはっきりと伝えています。
さらに39節では、「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺してしまいました」と語って、ユダヤ人たちが主イエスを十字架につけて殺してしまったけれども、神が、イエスを三日目に復活させて人人の前に現わしてくださったことを告げています。
そして41節では、「しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」と、語っています。
「木」と「食事」という言葉を用いることによって、ペトロが主イエスがペトロ自身をイエスを目撃した証人としてくださったことを強調して語っているのです。
さらに42節では、ペトロは自分に、「主イエスが、生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であること」、「民に宣べ伝え、力強く証しすることを自分たちに命じられたこと」を語っています。
福音を宣べ伝える対象となる「民」とは、もはやユダヤ人だけではありません。新しい神の民の教会、主イエスを信じる者の群れとして、異邦人をも信仰によって受け入れられて、福音宣教の大転換が始まっています。
死者の中から復活した主イエスは、生きている者と死んだ者全ての審判者として立てられます。その主イエスによる生と死を貫くご支配が行われていることを、神様の招かれた民に宣べ伝え、証しすることを命じられたと言うのです。
43節には、「預言者たちも皆、この主イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししている」と語られています。
旧約聖書にも、主イエスを信じる者はだれでも、つまり異邦人でも、主イエスのみ名によって罪の赦しが受けられる、という福音が証しされていることがペテロに示され、驚きをもってそれを受け入れて語っています。
ペトロは、ここで主イエス・キリストの救いが異邦人にまで与えられるという、旧約聖書に書かれている預言者の言葉を改めて読み直すことができたのです。そして、
主イエス・キリストによる救いは、旧約聖書以来の神の民ユダヤ人に先ず示され、与えられました。ここでペトロが新しくされた、変えられたというのは、一つには、聖書の読み方が変えられたということです。聖書の中に、それまで自分が考えてもみなかった神の救いの恵みを見出すことが出来て驚いています。そのことを受け入れることによって、ペトロは新しくされたのです。同じことがわたしたちにも起ります。わたしたちは旧約聖書と新約聖書のみ言葉の中に、自分が思ってもみなかった、神からの恵みの新しいみ言葉を見出して驚くのです。わたしたちは、その驚きによって新しくされ、変えられるのです。
旧約聖書イザヤ書52章7節に、「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。御言葉の中に「恵みの良い知らせ」を聞いた人の驚きと、喜びの叫びが書かれています。
この驚きと喜びを共有していくことがわたしたちの信仰です。教会において人が変えられる、新しくされるという驚くべき出来事は、御言葉に対する驚きと喜びの中で起るのです。
44節に、「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。」と書かれています。聖霊が人々に降ったことは、これまでに何度も語られています。
ペンテコステの日に教会が誕生したのも、聖霊が降ったことによってでした。
使徒言行録4章では、弟子たちが聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしています。
使徒言行録8章では、ペトロとヨハネが主イエスを信じたサマリアの人々の上に手を置くと聖霊が降っています。
このように、教会の歩みの節目節目で、聖霊は繰り返し人人に降り、力づけ、導いて下さったのです。
45-46節には、異邦人にも聖霊が与えられたのを見て、また、異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いて、大いに驚いたと書かれています。
そして47節でペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか。」と言って、
「イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けるようにと、その人たちに命じた。」と書かれています。
使徒言行録2章38節には、「悔い改めなさい。そして、めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と、悔い改め→洗礼→聖霊の順で書かれていました。皆さんは、人に聖霊が降ることと洗礼を授かることとはどちらが先だと思われますか。
今日の聖書箇所では、洗礼を受けることよりも、聖霊を受けることが先だったことが明確に書かれています。そして異邦人にもキリストの救いが告げ広められ、異邦人が教会に加えられていく大きな歴史の転換となった出来事です。
主イエスの十字架の死と復活による救いにあずかる洗礼が、異邦人にも授けられ、教会が異邦人をも含む群れとなって成長していく、その大切な出発において、聖霊が先立って働いて下さったことが書かれているのです。
わたしたちがこのように、聖霊のみ業によって先立って進み行かれる主イエスの後にしっかりついて行くためには、教会が御言葉によって新しくされ、造り変えられるという体験を積み重ねていかなければならないのです。
『すべての人の主』であるイエスが、聖霊をわたしたちにも豊かに注いで下さり、恵みのみ言葉による驚きと、それによって新たにされる喜びを豊かに与えて下さるように祈り求めます。
自分が思いもしなかった恵みを御言葉によって示される驚き、そしてその御言葉によって自分が変えられ、新しくされる喜び、それを積み重ねていくところに、わたしたちの信仰の生命があるのです。
生命のあるところには成長があります。また、驚きと喜びのあるところには前進があります。
「『すべての人の主』であるイエスが示された神の愛」が福音のベースです。主イエス・キリストが今も、父なる神のみもとでわたしたちのために執り成して下さっているからこそ、神の愛からわたしたちを引き離すことができるものは何一つないのです。



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