三度あって、三人の人が(使徒11:1-18) 20260823
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更新日:1 日前
(聖書)
サムエル記上3章1-9節(432頁)
使徒言行録11章1-18節(234頁)
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年8月23日聖霊降臨節第14主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
使徒言行録11章1節には、「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」と書かれています。神の救いが異邦人にも及んで、異邦人も神から与えられた福音を受け入れたという歴史の重要な転換点です。異邦人が福音を受け入れたことを、エルサレムにいる人々が後から聞いたという建付けになっています。
2,3節では、「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。」と書かれています。
ペトロが異邦人たちと一緒に「食事」をしたことで非難されているのです。ユダヤ人が問題にしたことは、「割礼」を受けていない異邦人のコルネリウスたちにペトロが洗礼を授けたことよりも食事を共にしたことだったのです。
ガラテヤの信徒への手紙2章12節(新約344頁)に、ペトロが異邦人と食事をしていた問題が書かれています。ペトロ(ケファ)は異邦人と食事をしていたのに、エルサレム教会の指導者であった主の兄弟ヤコブのもとからある人々が来ると、「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」と、そして14節bで、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」とパウロがペトロの態度を指摘しています。
当時は、異邦人と一緒にする食事をすることは、ユダヤ人にとって大問題だったことが分かります。ペトロは、異邦人のコルネリウスたちと一緒に食事にしたように福音宣教のためであれば異邦人と食事をしていたのでしょう。ところが派遣元のエルサレム教会から人が来ると、ペトロは、人目を気にして異邦人と食事をすることをためらったということでパウロになじられたのです。
それほどまでに当時のユダヤ人には、厳しい食物規定がありました。また異邦人と接触することは「汚れ」であるとして避けていました。ユダヤ人の共同体としての清さを大切にして、共同体のアイデンティティを守ることが重視されていたのです。
ところが紆余曲折を経て、神の選びがある中で異邦人との教会生活が始まっていくことになるのです。
現在の社会において、民族や国の違い、国境などあらゆる垣根を取り除いて、人や物やサービスが自由に移動をしていくグローバル化が始まっています。
これまでは、違う人種・宗教・習慣・考え方を持った人たちとは別々のところに離れて暮らしていましたが、今や、自分とはまったく違う人々がすぐ隣の部屋に一緒に住んでいるといった状況になっていて、いかに隣人同志が愛をもって寛容さを示せるかが問われる時代なのです。
現代に生きるわたしたちは、異邦人のコルネリウスを、神がどう思っておられるのかを考える必要があります。キリストは、異邦人コルネリウスのためにも、十字架で死んで三日後に復活してくださったのですから。
聖書に戻りましょう。
4節には、ペテロを非難していた人々に「事の次第を順序正しく説明し始めた。」と書かれています。
「順序正しく」という言葉は、ルカによる福音書1章3節で,筆者のルカが、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」と書いていた,「順序正しく」と同じものです。
ここから17節までは、順序正しくおこなったペトロの説明です。
6-7節でペトロは、自分がある日不思議な幻を見て天からの声を聞いたことが書かれています。
そして10節でペテロは、「こういうことが三度あって、そのあと全部がまた天に引き上げられました。」と、ペトロが幻を見て天からの声があったことを証言しています。
それから11節で、ペトロに清さについての天使の声が「三度」あったこと、コルネリウスが遣わした「三人の人」がペトロのところに到着したことが語られています。
そして12節では、聖霊の命じられて六人の兄弟と一緒にコルネリウスの家に赴いています。
13節で、コルネリウスが自分の家に天使が立っているのを見て、シモンを招くように言われたことが書かれています。そして
14-15節で、ペトロが話し出すと異邦人たちの上に聖霊が降ったというのです。
本日与えられている旧約聖書サムエル記上3章1-9節(旧432頁)は、少年サムエルへの主の呼びかけが三度行われたことが書かれていました。
主の神殿の柱に近い席に着いていた(サム上1:9)と書かれていた祭司エリから、主の三度目の呼びかけに、『主よ、お話しください。僕いております』と答えるように指導されて、サムエルがそれに従って応答しています(サム上1:10)。
聖書では「三度」「三人」という反復が行われることがあります。それは、単なる偶然ではなく、文学的・神学的な意味を帯びて用いられている可能性が高いと考えられますが、「七」「十二」「四十」ほど象徴性が強い数字ではありません。
ここでは、三という数字自体に特別な神秘的意味を読み込むよりも、「神の御心が確かに示されたこと」を強調する表現をしていると考えて、今日の説教題を「三度あって、三人の人が」とさせていただきました。
ペトロは一つの出来事だけではなく、複数の神の働きが重なっていたことを順序正しく証言して、異邦人への福音宣教は人間の思いつきで始まったことではなく、神ご自身の導きで行われたものであることを、ペトロは自分の体験として証ししているのです。
そして17節でペトロは、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」と、神にこそ主権があることを神への謙遜な姿勢を示して語っているのです。
ここでペトロは、「わたしたちに与えてくださった同じ賜物」という言葉を用いて、ユダヤ人だから聖霊を与える、異邦人だから与えない、という区別を神はなさらないことを証言しているのです。
そして、「わたしのような者が」、「どうして妨げることができたでしょうか。」と言って、神が異邦人を受け入れられたのに、自分が神の働きを止めることなどできるでしょうか、異邦人を受け入れたのは神であり、自分ではないと神に対する謙遜な姿勢を示しているのです。
そして18節には、「この言葉を聞いて人々は静まり、「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。」とその時の様子が書かれています。
「静まり」と言う言葉には、「反論をやめる」「非難するのをやめる」と言う意味があります。2節に、割礼を受けている者たちがペトロを非難したと書かれていましたから、割礼を受けている者たちが、反論や非難をするのをやめて静まったということです。彼らは沈黙し、神への畏れに打たれ、そして口を開きます。「神は異邦人を悔い改めさせ、(神が異邦人に)命を与えてくださったのだ」と言っています。そして、神を賛美したというのです。
以前は、ペトロは異邦人との関わりに抵抗を感じていました。しかし、神が働かれたと言うことが明確に分かったとき、自分の従来の考えに固執することなく神のなさることを優先したのです。
コルネリウスたち異邦人も教会に加えられました。コルネリウスのためにも、キリストは十字架で死んでくださった、そして異邦人もキリストの命に生かされているのだ、キリストによって「生かされている命」だと、考えを改めたのです。
ペトロを非難していたユダヤ人たちにも変化が起こりました。こうしてユダヤ人、異邦人という分け隔てをすることのない教会になりました。キリストの命に生かされる人が増えました。
ペトロとコルネリウスが肩を並べています、また最初期の教会の者たちがユダヤ人と異邦人の区別なく肩を並べて礼拝に集い、讃美をしている姿を思い浮かべて、わたしたちの心は感謝に満たされます。
人間の力によって、人間的な親しさによってそのようなことが実現したのではなく、神によってコルネリウスが受け入れられている、そのことに教会が気付きました。それが源となり、教会に平和な交わりが生まれていきました。
この世界にも、平和を来たらせてください。そのためにも、教会の平和を広げていくことができますように。キリストがこんなわたしのために十字架で死んで愛を注いでてくださったことを、まず覚えることができますように。そしてキリストの愛を、互いに分かち合う平和な交わりを広げていくことができますように。ペトロとコルネリウス、そして最初期の教会が導かれたように、わたしたちをも導いてくださいと祈ります。
さて、杵築教会においては、どのようなコルネリウスが生まれるでしょうか。次のコルネリウスが、またその次のコルネリウスが、教会に与えられることを祈ります。



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