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神の前にいる(使徒10:1-33) 20260809

  • 8月9日
  • 読了時間: 8分

更新日:1 日前

(聖書)

イザヤ9章1節-6節(旧約1073頁)

使徒言行録10章1-33節(新約232頁)


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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年8月9日聖霊降臨第12主日礼拝説教要旨です。杵築教会 伝道師金森一雄

 

1.ヤッファからカイサリアへ


使徒言行録第10章1節以下には、ヤッファと、カイサリアという二つの町が出てきます。聖書の後ろの付録「地図6新約時代のパレスチナ」をご覧下さい。ヤッファとカイサリアの位置関係を確認しておきましょう。

 

本日の聖書箇所では、カイサリアからヤッファへ、そしてヤッファからカイサリアへと人が行き来しますが、直線距離で50kmぐらいです。当時の交通手段は徒歩ですが、出発した次の日に到着できる移動可能な距離と考えられていました。

 

この二つの町の歴史をひもとくと、ヤッファは大変古い町で、ソロモンの神殿の建設に使われたレバノン杉はこの港に運び込まれてエルサレムに運ばれました。また、旧約聖書のヨナ書では、神様からヨナが、アッシリアの都ニネベへ行けという命令があったのに、ヨナは反対の方向へ逃げて船出したのがこのヤッファの港です。

 

それに対してカイサリアは新しい町です。ローマ帝国を後ろ楯としたヘロデ大王が、約十年かけて立派な港を新しく造ってカイサリアと命名しました。このカイサリアという名前は、「皇帝(カエサル)の町」という意味です。古代ローマ帝国内にはカイサリアという同じ名前の都市がいくつも造られていました。古代の文献では、「カッパドキアのカエサリア」、「パレスチナのカエサリア」、北アフリカ、「マウレタニアのカエサリア」というように、それぞれ地域の名前を添えられていました。その中で最もよく知られているのが、このイスラエルの地中海沿岸にあるカイサリアです。

 

2.ユダヤ人と異邦人

 

今日の聖書個所は、異邦人への伝道の開始という、新しい広がりが始まる出発の時となります。28節では、ペトロが、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と、語っています。ユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれた民だという自覚を強くして、彼らと交際することを避けて他民族のことを「異邦人」と呼んでいました。

 

主イエス・キリストは、ユダヤ人の一人としてお生まれになりました。そして、十字架の死と復活によって、約束されていたメシア、救い主としてご自身を現わされて、すべての人を救う御業を成し遂げられました。

ところが、ユダヤ人と異邦人の間には、宗教的、歴史的な隔たりがありました。それは、主イエス・キリストによる救いを信じる者の群れである教会においても、そう簡単に乗り越えられるものではなかったのです。

 

しかし、主イエスによる救いの恵みは、神の民であるユダヤ人という枠を超えて広く与えられていきます。そして主イエスを信じた者たちは、クリスチャンと呼ばれ、主イエスこそがメシア、キリストであるという信仰を宣べ伝えたのです。


3.幻と天使と“霊”の働き

 

使徒言行録10章には、異邦人の百人隊長コルネリウスと使徒のペトロとの間で、ユダヤ人と異邦人の隔たりを乗り越えるような出来事が起こったことが書かれています。コルネリウスは3節で、ペトロは17節で、それぞれ幻を見た、と書かれています。この二人がそれぞれ、幻によって神様から示しを受けているのです。

 

2節に、コルネリウスについて「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と紹介されています。

コルネリウスは、ラテン語の「cornu(コルヌ)」=「角(つの)」に由来する古代ローマの歴史と伝統のある名門一族の姓です。

ここで「信仰心あつく」と書かれているのは、イスラエルの主なる神様への信仰心が厚かったことを言っているのです。

「民に多くの施しをし」と言っているのは、コルネリウスがイスラエルの民に多くの施しをしたということです。


3節で、コルネリウスは、「天使を幻ではっきり見た。」と書かれています。

そして、4-6節で、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送り、ペトロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンと言う人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」と、天使がコルネリウスにかなり細かいことまで伝えています。そして、コルネリウスはその神様の示しに従い、ヤッファに人を遣わしてペトロを招いたという話しです。

 

一方、十二使徒のペトロですが、8章17節で、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」と書かれていて、サマリア人に聖霊が与えられて真の信仰を得て教会に加えられた出来事を直接体験していました。そしてこのペトロの信仰の体験が、主イエスの福音が異邦人へと広められていくために豊かに用いられていくのです。

ここでは、11-12節で、ペトロが空腹を覚えて、我を忘れたようになって、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来る」の見たことと、13節で「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という天からの声を聞いたことが書かれています。16節には、こういうことが三度あったと書かれています。

ペテロには、イエスを三度否認した苦い経験がありました。その時には、復活後のイエスから「あなたはわたしを愛しますか」と三度問われています。

どうやら「三度」ということが繰り返されていて、ペテロにとって重要な転機を示す印象的なパターンになっているのです。

 

そしていよいよ二人の出会いの時が訪れます。

17節には、「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると」、コルネリウスの使者たちが到着したと書かれています。

 

19節に、“霊”がペトロに、「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と言ったと書かれています。

 

4.コルネリウスとペトロの出会い

 

ヤッファにコルネリウスの送った三人が着くと、ペトロは20節で、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」と”霊”に告げられます。22節では、コルネリウスの召し使いたちが「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」とペトロに語っています。

「神を畏れ」というのは、主なる神様を畏れ、信じていた、ということです。コルネリウスは、ローマの軍隊の百人隊長でありながら、その一家は、ユダヤ人の神様を信じていて、その信仰を尊敬し、ユダヤ人のために何かと助けの手を差し伸べていたというのです。神様はその彼の信仰と祈りを覚えていてくださったのです。

 

それから翌日ヤッファを出発してその翌日にペトロの一行がカイサリアに到着しています。すると、コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。

そして25節に、ペトロを迎えたコルネリウスが、ペトロの足もとにひれ伏して拝んだと書かれています。コルネリウスは、神様によって示されたペトロを、神様ご自身であるかのように拝んだのです。ペトロは、コルネリウスを起こし、「お立ちください。わたしもただの人間です」と、大変謙遜な言葉を語って、家に入って行ったと書かれています。

 

これに対しペトロは28節で、集まっていた多くの人の前で、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」と語っています。この時ペトロが語った言葉で、「神が清めたもの」とは、食べ物だけではなく、神が受け入れようとしておられる異邦人のことを指しているのです。

三度繰り返されたと書かれています。この言葉から推測しますと、ペテロは自分の長年の偏見を捨て、異邦人にも福音を伝えるという神の新しいご計画を受け入れる準備ができていたことをわたしたちに伝えているのでしょう。

 

そして33節では、ローマの百人隊長コルネリウスが使徒のペトロに、「よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、『神の前にいる』のです」と、とても謙遜な言葉で語っています。

 

このことがわたしたちに教えてくれることは、コルネリウスのようなローマの百人隊長という地位にあった異邦人であっても、謙遜な姿勢で神様の前に立つ時に、真実に神様のみ言葉を聞くことができるということです。

 

この出来事から、主が語られる言葉を残らず聞こうとする謙遜さを大切にしたいという祈りを込めて、今日の説教題を『神の前にいる』とさせていただきました。

今日の聖書箇所では、十二使徒のペトロが異邦人の百人隊長コルネリウスへ伝道したこと、使徒ペトロがカイサリア伝道をしたことが語られているのですが、実際の話は、神様による主イエスの聖霊によるみ業に、ペトロとコルネリウスが共に従った物語だということが分かります。

 

伝道は、私たち人間が何かをすることによって成し遂げられる業ではありません。神様がしてくださることです。だからと言って、そこでわたしたちは何もすることがないのではありません。とても大事なことを求められます。それは主に従順に従うことです。ペトロもコルネリウスも、先立って働いておられる主イエスのみ業を受け入れたのです。

 

み言葉を伝える者も伝えられる者も共に、神様のみ業を受け入れ、従う、ということが起る時に、人と人との間に横たわる様々な隔たり、溝が乗り越えられて、福音が伝えられ、伝道が実現するのです。

 

同じような見方をすることによって、わたしたちが謙遜な姿勢で礼拝を守る時にこそ、神様のみ言葉が、恵みに満ちた語りかけとしてわたしたちの心に響いてくることを知るのです。

 

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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