キリスト者と呼ばれる(使徒11:19-30) 20260830
- 7 時間前
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(聖書)
イザヤ書43章1-7節(1130頁)
使徒言行録11章19-30節(235頁)
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年8月30日聖霊降臨節第15主日礼
拝の説教要旨です。
1.迫害で散らされた者たちによる伝道
使徒言行録11章19節aに、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」と、ステファノの殉教から始まったエルサレムでの大迫害によって散らされていた人々が、シリアのアンティオキアまで行ったことが書かれています。聖書の巻末の付録地図「7パウロの宣教旅行1」を見てください。
地中海沿いに南北に走る海岸線の最北で、西に90度曲がるすぐ手前にアンティオキアがあります。今日の聖書箇所には、アンティオキアと言う地名が6回も出てきます。アンティオキア尽くしの聖書箇所です。
ローマ帝国シリア州の首都で、ローマ、エジプトのアレクサンドリアに次ぐ、ローマ帝国第三のマンモス都市です。人口は80万人にも上っていたと言われている商業、貿易の中心地で、様々な民族が暮らす国際都市でした。異邦人を主たるメンバーとする教会が生まれるのには最も条件が整っていました。
19節bに、「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」と書かれています。「語らなかった」は、単なる情報ではありません。ルカはその言葉によって、宣教の大きな壁があったことを書いているのです。
迫害のためにこの地域に散らされた人々は、ユダヤ人のみが神の民であって、救いにあずかる者だという選民意識が根強かったのです。ここではこれ以上は深入りしませんが、ユダヤ人が異邦人への伝道に踏み切るに至るまでには多くの大変な問題があったのです。
ところが非常に象徴的なことは、ユダ人が迫害によって散らされたという困難な出来事が、福音がエルサレムの外へ広がるきっかけになったことです。
つまり11章19節で「語らなかった」という言葉を用いて人間としての限界を語るとともに、人間がまだ踏み出せていなかったところへ神が次の一歩を開かれていくことが示されている言葉となっているのです。
20節で、キプロス島やキレネから来た人がアンティオキアへ行き、ギリシャ語で福音を伝えたと書かれています。船で渡って来た者として、地中海に浮かぶ島キプロス、エジプトの西方の北アフリカの町キレネという地名もあります。次第にギリシャ文化を持つギリシャ語を話すユダヤ人や異邦人にも語り掛けて、伝道の実りが生まれ、ギリシア語での伝道が成功していきます。そうした人々がアンティオキアに来ていたのです。
21節に、「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」と、書かれている通り、神の御手が一緒にあって主が働いてくださったというのです。
22節には、「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した」と書かれています。
福音がユダヤ人の枠を越えて異邦人へ広がっていく転換点の舞台として、アンティオケアが新しい福音宣教が始まる象徴の地として描かれているのです。
2.バルナバとパウロによる伝道
そして23節には、「バルナバはそこ(アンティオキア)に到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」と書かれています。
バルナバがアンティオキアに派遣され、「神の恵みが与えられた有様を見て喜んだ」というのは、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、彼らが信じて主に立ち帰り教会に加えられている様子を見たからです。
そして、「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」と書かれています。新しい聖書協会共同訳聖書では、「揺るぎない心で主にとどまっているようにと、皆を励ました」と翻訳されています。
そして24節には、「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」、「多くの人が主へと導かれた。」と書かれています。
イエス・キリストこそが、わたしたちの主であり、主イエスのご支配は、ユダヤ人のみではなく、異邦人にも全ての人々に及んでいて、主イエスのご支配の外にいる者は一人もいないのです。
主イエスのご支配を信じて勇気をもって人々が伝道していったことによって、そこに主のみ手が働き、多くの異邦人たちが、信じて主に立ち帰った、つまり悔い改めて主イエスを信じ、アンティオキアに教会が生まれていったのです。
異邦人にも主イエスの福音が伝えられ、彼らがそれを信じて主に立ち帰ったことを神の恵みのみ業として感謝したのです。
ヨハネによる福音書15章5節に、主イエスが語られたぶどうの木の譬えがあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と書かれています。ぶどうの木の枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにしっかりとつながっている必要があります。ここでの「つながる」という言葉は、「とどまる」という言葉と同じです。バルナバが語っているのも、「離れるな」という消極的なことではなく、「つながっているように」「とどまっているように」ということなのです。
「困った時の神頼み」という言葉があります。困った時だけ神に頼るのか、というあまり良い意味で用いられない言葉かもしれませんが、わたしはそれも大いに結構なことだと思います。そもそも私たちの人生、いつでも困っているのです。大いに「困った時の神頼み」をしてください。
困るのは「神離れ」です。つながっていた神と離れてしまうことです。わたしたちは主イエスというぶどうの木に接ぎ木していただいたのですから、しっかりそこにつながってとどまるように、とバルナバは励ましているのです。
バルナバによって、エルサレム教会とアンティオキア教会はよい関係を築き、主イエスを信じる者の群れとして共に歩むことができるようになりました。
バルナバが、異邦人を中心とするアンティオキア教会をどのように見て、何を語るかが、ユダヤ人の教会と異邦人の教会の今後の関係を左右しかねないことで、何でもないことのようですが、とても重大なことだったのです。
3.パウロをアンティオキアへ
使徒言行録の9章26節には、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」と書かれていました。そして27節に、バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内して、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明して、バルナバが執り成しをしたのです。迫害者が伝道者になったのですから、教会の人たちも警戒したでしょう。パウロは回心して伝道者になりますが、最初のうちはなかなか大変だったというのは当然の事でした。
今日の使徒言行録11章25節以降は、その続きとなるものです。それからバルナバはサウロを捜しにサウロ(パウロ)の出身地タルソスタルソスへ向かったと書かれています。そして26節でバルナバがサウロを見つけ出してアンティオキアに連れ帰っています。アンティオキアでバルナバとサウロが丸一年多くの弟子たちを教え、初めてキリスト者と呼ばれるようになったと、書かれています。もはや教会はユダヤ人だけのものではありません。
4.預言者の働き
27-30節に、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来て、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって預言したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こり、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決め、それを実行したと、“霊”によって預言者アガボが大飢饉を知らせ、人々が備え、 助ける人と助けられる人が生まれ、教会が互いに支え合う、援助の品を送るという成り行きが書かれています。
ここには、神は未来を知らせることで、教会を恐れさせるのではなく、教会同士の交わりが具体的な愛の行動へと成長し、アンティオキア教会がエルサレムの教会と霊的に結ばれ、キリストを頭とする互いに支え合う一つの教会となったことが書かれているのです。
神が主権を持っておられ、しかし、人間にも責任が与えられているのです。わたしたちは自分に与えられているものの中から、できることをするのです。
本日わたしたちに与えられている旧約聖書イザヤ書43章4節(1130頁)には、「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」と書かれています。「価高く」「貴く」とは、神から見て非常に価値があり、大切だということです。
人間は、自分の能力や失敗、周囲からの評価によって「自分には価値がない」と感じることがありますが、神の目から見れば、あなたは他人と比較して価値が決まる存在ではなく大切な存在なのだということです。
6b-7節には、「わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」と書かれています。
イザヤ書43章には、イスラエルがバビロン捕囚などの苦難から回復することが背景にあるのです。わたしたちには、救いと、大いなる喜びがあります。
わたしたちはクリスチャンと呼ばれています。キリスト者と呼ばれる者は、神の御手が共にあり、キリストのうちに留まり、愛と献身に生きるのです。
それがクリスチャンという麗しい名前なのです。自分で獲得した名前ではありません。自分でつけたものではありません。
アンティオキアの教会は、エルサレムの教会と霊的に結ばれ、主のもとにしっかりと留まって生きることで、キリストを頭とする互いに支え合う一つの教会となり神の恵みの御計画が実現して行ったのです。
そこにこそ、キリスト者と呼ばれるわたしたちの真実の喜びがあり、まことの慰めと励ましがあるのです。



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