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サマリアでのフィリポの働き(使徒8:4-14) 20260621

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更新日:3 時間前

(聖書)

列王記下17章21-24節(旧約607頁)

使徒言行録8章4-13節(新約227頁)


👇2026年6月21日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください

フィリピの魔術Vsシモンの福音宣教
フィリピの魔術Vsシモンの福音宣教

 

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年6月21日聖霊降臨節第5主日礼拝の説教要旨です。


1.フィリポのサマリア伝道

 

本日、私たちに与えられた使徒言行録の箇所では、伝道者フィリポがサマリアの町へ行った時のことが記されています。

列王記下17章22-23節に、「イスラエルの人々はヤロブアムの犯したすべての罪に従って歩み、それを離れなかった。主はついにその僕であるすべての預言者を通してお告げになっていたとおり、イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている。」と書かれています。

 

ここで語られているイスラエルとヤロブアムの犯したすべての罪とは、ダビデの孫の時代の出来事を指しています。イスラエルが北の10部族と南ユダヤ族に分裂して北イスラエル王国と南ユダ王国となったときの、北イスラエル王国の初代の王様がヤロブアム一世です。聖書の中で、「ヤロブアムの犯した罪」という言葉が何度も出てきます。それほどまでに神様が嫌われた罪なのです。


それは、金の子牛の像を二つ造って北イスラエルの北の端ダンと南の端ベテルに聖所を置いて、人々が南ユダヤのエルサレム神殿に礼拝に行くことを阻止する施策でした。金の子牛という偶像を造ったことと聖所と言う場所の問題が、罪(=的外れ)であり,神様への大反逆であることを指しています。

 

ベテルは、北イスラエルと南ユダヤの境界線に近くでエルサレムの北方わずか20kmのところに位置しています。イスラエルの中央山地を通る南北交通の南の要衝の地です。ダンは、シリア方面から人や物資が集まる交通路の近くにある町で、ガリラヤ湖の北方60kmにあります。北イスラエル王国の初代の王ヤロブアム一世は、北イスラエル国内にベテルとダンに新たな二つの聖所を置くことによって、北イスラエル王国全体を宗教的に包み込もうとして、自国の影響力を広げて、結束を強めようとしたのです。

 

エルサレムは、南ユダ王国の地となっていましたので、北イスラエル王国のどこからでも新たに作った北のダンか南のベテルの金の牛を祭った聖所で礼拝できる体制を整えて、北イスラエルの人々がエルサレムへの巡礼に向かうのを阻止しようという狙いがあったのです。それは、聖書の神への大反逆行為、人間の側で決めた偶像礼拝となることだったのです。


一方、当時の世界の覇者アッシリアは、征服地の反乱を防ぐために、征服した住民を強制移住させて別の土地に住まわせる政策をとっていました。列王記下17章24節に、アッシリアの王が「バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。」と書かれています。アッシリアが征服したサマリアにバビロニア人、アラム人、その他メソポタミア系住民などの混成集団を移住させて、征服した北王国イスラエルの人たちと外国の人たちの血が混ざる同化政策を進めたのです。サマリア人と呼ばれる人たちは、もともとはイスラエルのエフライム族とマナセ族に与えられた地域で形成されていて、紀元前9世紀にサマリアの町が北イスラエル王国の首都となり、北イスラエル王国全体を指す名称として使われるようになったのです。


もとより、ユダヤ人たちは純血であることをとても大事にしますから、アッシリアに征服された北イスラエル王国のサマリア人は外国の血が混ざってしまった人たちだ、と見なして疎外したのです。

このようにしてサマリア人とユダヤ人が犬猿の仲になっていった歴史があるのです。

 

2.サマリア伝道

 

ヨハネによる福音書の4章6節(新169頁)に、主イエスと弟子たちがサマリアに行った時のことが書かれています。主イエスはヤコブの井戸のそばに座っておられ、そこにサマリアの女が水をくみにやって来ます。主イエスが「水を飲ませてください」と言われました(7節)。「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」(8節)と書かれています。

サマリアの女は驚きました。9節には、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」と、その理由が書かれています。ユダヤ人から、話しかけられること自体、驚きの出来事だったのです。普通に考えれば、ユダヤ人はサマリアの町への伝道など計画しません。サマリアの町を通ろうともしなかった時代なのです。


ところが、わたしたちに本日与えられた使徒言行録8章1節には、エルサレムの教会に対する大迫害が起こると、多くの人たちがエルサレムからサマリアにも散って行ったことが書かれているのです。

人間の思いからではなく、神様のご意志が働いているということだと思います。ステファノが殉教し、フィリポによるエルサレム教会の迫害後の最初の宣教地がサマリアとなったのです。

 

そして、3節には、「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」と書かれ、4節では、「散って行った人々が、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」、5節では、「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」と、歴史の大転換点となる人物の名前が登場して神様の御計画の中ですべてのことが確実に進んで行くのです。


6-8節に、「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」、「実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。」と、書かれています。

一方で9節に、魔術師シモンという人物が出てきます。シモンについては、「偉大な人物と自称していた。」10節に「小さな者から大きな者に至るまで皆」、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。」と書かれています。

「小さな者から大きな者に至るまで皆」と、社会のあらゆる階層の人々が広く影響を受けていたということが強調されて書かれています。そして11節に、「人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」と説明されているのです。

このように筆者のルカは、フィリポと魔術師シモンの対立軸を浮かびあげらせて書いているのです。

 

フィリポは、自分の名を高めようとはしていません。あくまでも伝道者として、イエス・キリストの福音を伝えたのです。12節には、「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼(バプテスマ)を受けた。」と、書かれています。「神の国」とは、神様のご支配のことです。

その結果13節に、「シモン自身も信じて洗礼(バプテスマ)を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」と、書かれています。

それまでは人々を驚かせ、人々の心を奪い、人々の目を自分に注がせていた魔術師シモンが、今度は逆にフィリポに驚かされる立場になったのです。こうして、サマリアの町はエルサレムで大迫害が起こったときに、魔術の支配から神様のご支配がなされるように変わったのです。

 

3.洗礼を受けて、解放される

 

この魔術師シモンの話から、束縛からの人々の解放は、洗礼(バプテスマ)によってなされることを知ることができます。そしてサマリアの町の人たちは、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました。


わたしたちも洗礼(バプテスマ)を受けます。

洗礼を受けてもちっとも変わらない、という声もよく耳にします。確かに、洗礼を受ける前と後で、自分自身を見つめていれば、洗礼を受けたからといってすぐに変わったようには見えません。むしろ何も変わっていないのではないかと思わされます。

 しかし、決定的な変化が洗礼によって起こります。自分の主人が変わるということです。


主イエスが、マタイによる福音書6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。パウロは、ローマの信徒への手紙6章16節bで「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」と語っています。

 

洗礼を受けますと、罪の奴隷だったわたしたちは、神の僕に変えられるのです。皆さんは、罪の奴隷と神の僕のどちらの身分を選ばれますか。それを決断することがわたしたち一人一人の「出エジプト」なのです。それによって、自分の主人が変わるのです。

美容整形のように自分の姿が変わるのではありませんが、キリストに似たものに変えられていくことが始まるのです。

 

今なお、この世の中には闘いが続いています。

伝道者フィリポが魔術師シモンに勝利したように、この世界では、神様の力に対し罪の力が闘いを挑んでいますが、神様は必ず勝利されます。魔術のようなものに振り回されて歩むのか、それとも神様の力を信じ、地に足をつけてキリストを主人として歩むのか、わたしたちは勝利者となる道を選択する自由が与えられているのです。わたしたちは、神様のご支配を信じて、主イエスと共に歩む群れなのです。

神様の権能を信じて、世界は神様によって支配され、神様の愛の支配の中に置かれていることを知り、洗礼(バプテスマ)を受けたキリスト者は、主イエスと共に歩み出し、神様によって恵みの中で変えられていくのです。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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