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ステファノの殉教(使徒7:54-8:1a) 20260607

  • 1 日前
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更新日:16 時間前

(聖書)

詩編103編8-13節(旧約940頁)

使徒言行録7章54節-8章1a節(新約227頁)


👇2026年6月7日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください

ステファノの殉教(使徒7:54-8:1a)
ステファノの殉教(使徒7:54-8:1a)

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年6月7日聖霊降臨第3主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


1.主イエスに倣ったステファノ

 

ここまでステファノは、エルサレムでイエスは「メシア」であると大胆に宣べ伝えていました。これに対し、ステファノに反発した人々がいました。

ステファノと激しい対立関係にあった人々については、6章9-14節(223頁)に、ギリシア語を話すユダヤ人たちの集まりで文化的背景が異なり独自の解放された奴隷の会堂を形成していた人々、キレネとアレクサンドリア出身者、キリキア、アジア州出身のユダヤ人たち、そしてステファノの教えに反対していた伝統的な宗教的指導者やその支持者たちだったと書かれていました。

 

彼らはステファノの教えそのものを論破できなかったので、ステファノが『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』と言っていたという偽証をしています。

実際には、イエスが神殿そのものを暴力的に破壊すると教えたのではなく、神殿中心の時代が終わり、律法を完成させて新しい契約が始まることを示していることをステファノが語ったわけですが、敵対者たちはその言葉を文字どおりに解釈したかのようにして、ステファノを「神殿と律法に敵対する者」として、最終的にステファノを裁判にかける方向へと事を運ぼうとしています。

ステファノは最高法院の前で弁明しました。その様子が7章以降に、「ステファノの説教」と小見出しがつけられて書かれていました。

 

本日の聖書箇所使徒言行録7章54節の小見出しには、「ステファノの殉教」と書かれています。冒頭に、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」と、人々とステファノの激しい対立関係が表現されています。もはや裁判どころではなくなってしまったようです。

 

55節に、ステファノが聖霊に満たされ、天を見つめたと書かれています。そして56節に、ステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と語っています。

人の子とは、主イエスのことです。福音書では、主イエスがご自身のことを指して「人の子」という言葉を使われました。主イエスが自分でそのように語られましたが、イエス以外の人が主イエスを指して「人の子」と言っているのは、この聖書箇所だけです。

 

2.主イエスが共におられた

 

わたしたちは使徒信条で、「全能の父なる神の右に座したまへり」と告白しています。詩編110編1節に出てきますが「右に座す」ということは、イエス・キリストには、全能の父なる神と同じ権威があるということを表す言葉です。

 

一般的に表現するなら「人の子が神の右に座しておられるのが見える」と言うはずですが、使徒言行録7章55、56節で、「神の右に立っておられる」という言葉を二度用いて強調されています。

ここでなぜ主イエスは立っておられたのかについては、想像する以外にありませんが、主イエスがステファノを迎え入れるために立ち上がられた、と多くの人が考えています。ステファノがまさに死のうとしていたときに、一緒に歩んでくださっている主イエスが立ち上がって迎え入れてくださるというのですから、ステファノは孤独ではありません。

 

57節に、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」と書かれています。ここに出てくる人々とは、単なる暴徒というより、れっきとした当時のユダヤ教社会の宗教指導層であり、またそれに同調した群衆です。ところが、きちんとした裁判の手続きが行われた様子がありません。裁判はそっちのけで、法的な手続きを経ずに多人数でステファノ一人に暴力や制裁を加えるといった状態(いわゆるリンチ)になっています。

58節には、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた。」と書かれています。

当時ユダヤ人社会では、神を冒瀆した者に対して、石打ちの刑が一応定められていましたが、ローマ帝国に支配されていたため、勝手にそういうことをやるわけにはいきませんでした。それにもかかわらず、最高法院の人たちは黙認したのでしょう。

 

3.死の間際の言葉

 

ステファノは、息絶える直前に、二つのことを言っています。

一つ目は59節です。「人々が石を投げつけている間、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と、「主イエスよ」と、呼びかけています。これはダビデが詩編31編6節で、冒頭で「主よ」と呼び掛けて、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」と語った状況と同じです。また、ルカによる福音書23節46節には、主イエスの十字架の死の場面が書かれていますが、その場面で、主イエスが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言っておられたことと重なります。

 

二つ目は60節です。ステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言っています。この言葉も、ルカによる福音書23章54節の主イエスが十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と語られた言葉と非常によく似ています。

 

ステファノは、石を投げつけられて死の間際にこれらの言葉を口にしました。ステファノが主イエスが語られた言葉と同じような言葉を死の間際に口にすることができたということは、ステファノは普段からキリストに倣い、キリストのご生涯に心を寄せていた人であったに違いありません。

 

初代教会では、「キリストに似た生き方をする人」について、『もう一人のキリスト』という表現をしています。ステファノは最初の殉教者であり、迫害の中にあってもこのような言葉を残して他の人々に対する隣人愛と赦しを示しました。このためステファノは、キリストの真の「弟子」であり、最後までキリストに倣った人物として「小さなキリスト」と言われているのです。創世記1章27節(旧約2頁)に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれています。ステファノは、その理想像として記憶されているのです。

 

実は、「キリスト者(Christian)」という言葉自体も、もともとは「キリストに属する者」「キリストのような者」という意味合いがあります。

わたしたち人間は、誰もが孤独に死ななければなりません。

しかし、誰一人、同じ死はありません。一人ひとりの死に方は違います。死の間際まで、家族に看取られたり、病院の看護師に世話をされたり、そういうことはあるかもしれませんが、誰も死の先にまで一緒について行くことはできません。死は孤独なものです。イエス・キリストもまた、十字架上で孤独の死を味わってくださいました。周囲は敵に囲まれ、弟子たちからも見捨てられて、人間の罪を背負い、死の苦しみを味わい尽くしてくださいました。

すべてを奪い取られて、全てを与え尽くして、その死はとても孤独でした。

 

主イエス・キリストは、孤独の死を味わう私たちすべての死を、ご自分の死としてくださいました。ですから、もはやわたしたちの死は孤独な死ではなくなりました。ステファノが死の道をたどるとき、そこにキリストがいてくださいました。キリストが立ち上がって迎え入れてくださいました。

わたしたちも、その同じ道ゆきをたどることができる希望があるのです。

 

4.パウロの証言

 

この場面で、後の使徒パウロが、ユダヤ名で「サウロ」として登場します。

サウロというのは、ヘブライ語での言い方で、後にパウロと呼ばれるようになります。聖書の中では、サウロがギリシア世界に伝道旅行に出て行くあたりから、ギリシア語名のパウロと書かれるようになります。

 

58節には、「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」と、石を投げた人々の衣を預かった人物として紹介されています。

そして、8章1節には、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」と書かれていて、当時のサウロは、この処刑に賛同する側にいたことを示しています。

 

そしてステファノは、主イエスと共にある眠りにつきました。

その一部始終をサウロという人物が見ていました。

そしてそのサウロが後に、復活の主イエスに出会い、回心し、伝道者になり、大伝道者パウロと言われるようになるのです。

使徒22章20節で、パウロは後にこの時のことを振り返って、「また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」と、自らを顧みています。

そのとき、パウロは、石は投げていないものの、ステファノ殺害の一部始終を見ていました。賛成していましたが、ステファノの死を見て衝撃を受けて強烈に覚えていたのでしょう。

 

ところで、今日の聖書箇所に記されているステファノの死の様子、ステファノが死ぬ間際に語った主イエスとそっくりの言葉、これはいったい誰が見聞きしたのだと思われますか。使徒言行録を書いたのはルカですが、ルカが直接見たわけではないでしょう。誰か教会のメンバーが見たのかもしれません。しかし最も可能性が高いのは、サウロが見聞きしたということです。

ですから後に、パウロは、あのようにステファノが死んだけれど、ステファノはイエス・キリストに倣い、イエス・キリストと共に眠りについた、と証言することができたのです。

 

わたしたちも、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に死ぬことができるのです。もはやわたしたちは孤独ではありません。クリスチャンとして、天を見つめ、キリストに倣って生き、死を越えてまでキリストと共に歩むことができるのです。

 

わたしたちをキリストの弟子にしてくださり、キリストに倣う「小さなキリスト」としてくださるのは、主イエス・キリストの父なる神様のご意志、ご計画の中にあることです。

主イエスのご受難、パッションを、わたしたちの心に刻ませていただきましょう。主イエスの十字架への道ゆきは、わたしたちを支え、わたしたちを導き、わたしたちを救う道ゆきでもあります。

 

わたしたちが主と共に歩むための道ゆきを主が示してくださっていることを信じることができますように、そして主イエスと共に人生の旅路を歩んでいくことができますように、死の間際まで、いや、死を越えてまでもわたしたちと共に歩んでください、と主なるイエス・キリストにお祈りさせていただきます。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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