ディアスポラ(使徒8:1-4) 20260614
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(聖書)
創世記11章1-9節(旧13頁)
使徒言行録8章1-4節(新227頁)
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年6月14日の聖霊降臨節第4主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
1.エルサレム教会に対する迫害
使徒言行録7章の「ステファノの説教」を読み進めていますが、59節に、ステファノは、人々から石を投げつけられている間、主に呼びかけて「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈っています。そして、60節で「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りにつきました。それから、エルサレムの教会に対する迫害が始まります。
その前の58節に、ステファノへの石投げが行われている間に、石投げをしていた人たちが、「自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」と書かれています。こうした形で、若かりし日のサウロが、衣服の預かり役として使徒言行録に登場しています。
そして、8章1節aに「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」と書かれています。
ここで大伝道師パウロが、ヘブライ語名のサウロという名前で二度登場しています。これからエルサレム教会に対する迫害が大きく動き出すと同時に、福音宣教の働きが始まったことを示唆しているのだと思います。後にパウロとして頻繁に聖書に登場することになりますが、サウロは自分の出自を捨てたのではなく、状況に応じてユダヤ人として,またローマ市民としてパウロというラテン語名で行動したことが聖書に書かれているのです。
衣服の預かり役をしていた若者のサウロが、これから福音のために文化の橋渡しをしたパウロと同一人物で、神様の選びによって用いられていくことを示しているのです。
8章1節bに、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」と書かれています。「その日」とは、石投げによるテロ行為によってステファノが殉教した日のことです。
多くの者が逃れなければ殺されかねないと感じて、エルサレムから散って行きました。エルサレムから散らされた者たちについて、「使徒たちのほかは皆」散らされたと書かれています。
ということは、使徒たちは散らされることなくエルサレムに残ることができたということです。
そして2節には、「しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。」と書かれています。
使徒たちは、エルサレムに留まることできた、おそらくヘブライ語を話す信仰深いユダヤ人たち,すなわち使徒たちの手によって、ステファノを葬ることができたということなのでしょう。多くの者がエルサレムから散って行ったと書かれている一方で、なぜ十二人の使徒たちはこのようにエルサレムに留まることができたのでしょうか。
しかも迫害の発端の出来事となったステファノの葬りができたというのです。
決死の覚悟で葬儀を行ったとは、書かれていません。
「聖書の疑問については、その答えを聖書から引き出すことが大切だ」と、かつてわたしは信仰の先輩に教えていただきました。それ以来ずっと、わたしはその原則を大切にして聖書の学びをしてきました。今回もその視点に立って、それより前の聖書の記述を調べてみました。
すると、使徒言行録6章1節(新223頁)に、「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」と書かれていることに気付かされます。この記述から、当時の教会には、話す言葉によって二つのグループが存在していたことが分かります。
6章2節に、この問題に対処するために、「(使徒たち)十二人はすべて呼び集め」と書かれていて、十二人の使徒たちのリーダーシップによって教会総会のようなものが開かれた様子が書かれています。そして、自分たちの中から、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」ということが提案されて、執事のような仕事を任せる七人を選んでいます。
そして6章5節には、「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで…」と、七人の執事が選ばれたことが書かれています。ステファノは、執事役の筆頭に出てきます。ここで選ばれた七人の執事全員の名前は、ギリシア語名ですから、「ギリシア語を話すユダヤ人」だったことが分かります。
そして、ステファノが殉教した時には、「ギリシア語を話すユダヤ人」たち全員が迫害によって散らされる対象となったのです。
一方で、使徒たちと「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、迫害の対象にはならなかったと書かれていますので、エルサレムに残ることができた信仰深い人々、すなわち使徒たちの手でギリシャ語を話す七人の執事の筆頭に書かれていたステファノの葬りができたのです。
この聖書個所からわたしたちが学ぶことができることは、平和の中で教会に問題が生じているとすれば、それはわたしたち人間の妬みや嫉み,あるいは言語の違い、などから差別をしてしまう罪からから生じるものであるということです。しかし、主なる神様は、教会に集うすべての人々を愛し続けてくださっていて、万一散らされるようなことがあったとしても、どのような時にも慰め,励まし、用いようとくださる方であるということです。
3節には、「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」と書かれています。この時点でサウロは、教会を迫害する側のリーダー格になっていることが分かります。
その後、使徒言行録の9章(新229頁)の冒頭の小見出しに、「サウロの回心」と書かれていて、この若者のサウロが、ラテン語名のパウロという名で呼ばれる教会の伝道者に変えられて行ったことが分かります。
使徒言行録13章9節には、「パウロとも呼ばれていたサウロ」と書かれていて、イスラエル初代王サウロに由来するヘブライ語名のサウロ(Saul)という名前の若者と、ローマ市民権を持っていたラテン語名のパウロ(Paul)という名前を持つ人が同一人物であり、若かりし時に教会を迫害する側にいたサウロから、福音宣教の伝道者のパウロに変えられていくことが、はっきりと書かれているのです。
当時の文化においては、このように二つの名前を持っていることは、珍しいことではなかったのです。聖書においては、これ以降は異邦人(ユダヤ人以外)への伝道物語が中心となります。それと同時にこれ以降、「サウロ」は、ラテン語名の「パウロ」として登場しているのです。
パウロは、少なくともラテン語はもとより、公用語だったギリシア語とユダヤ人の話していたアラム語あるいはヘブライ語を使いこなしていたのです。
パウロは、ユダヤ人にもギリシア人にも、そしてローマ人にもそれぞれの言語で語りかけることができた、バイリンガル伝道者として神様に用いられていくのです。
パウロは、コリント信徒への手紙一9章22節bで、「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」と福音宣教のあり方について情熱を持って語っています。事実、ディアスポラのユダヤ人としてユダヤ教教育を受けて育った、ギリシア文化圏のローマ市民でした。複数の文化を理解していて、複数の言語を身につけている、広範な伝道活動をした人なのです。
こうしたことからも、神様のご計画は、わたしたちの思いをはるかに超えた偉大なるものであることを知らされるのです。
3.散らされる
使徒言行録8章1節の終わりに、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に「散って行った」と書かれています。そして4節では、「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」と書かれています。
ここで、日本語で「散って行った」と書かれている言葉は、ギリシャ語原典の聖書ではディアスポラという動詞です。2度も受け身(受動態)で「散らされた」と書かれています。神様が「散らされた」ということで、神様のご意志,ご計画の中にあることだというのです。
ところで本日わたしたちの与えられた旧約聖書創世記11章(旧13頁)の「バベル(bā·ḇel)の塔」の聖書物語では、人々が高い塔を立てようとして、自分たちの力を誇示し、神様に並ぼうとしたけれども、神様が止められたという物語です。人々が、神様を超えようとした罪が指摘されて、神様が人々を混乱させて(bā·lal)、散らされたという物語です。
創世記11章4節に、「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」と、人間の罪が示されます。
8節で、「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。」と、神様の権能が示されたことが書かれています。
そして9節で、「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」と、「散る」という言葉が三回も受動態で用いられて,「神様によって散らされた」と書かれています。
バベル(混乱)の物語以降のイスラエルの歴史において、神が「散らされる」という言葉は、ギリシャ語では、ディアスポラで非常に重要な、キーワードになっています。語源的には「種が風によって広く蒔かれる」という意味ですが、ユダヤ人の離散を意味する言葉になったのです。今日の説教題おさせていただきました。
イスラエルの人々は、自分たちの国が滅ぼされ、散らされるという禍の中にある歴史の中に置かれています。そのたびに、彼らは神様のご計画に従うことが求められて、都度あちこちに移住しなければならなくなりますが、必ず残りの者がいたという歴史です。
まさに,イスラエルの人たちは、住んでいたところから「散らされて」、神様に従った者が散らされた各地でユダヤ人コミュニティーを作って生活をしています。種がまかれるように自分たちがそれまで住んでいた居住地から多くの者が散らされてきたのです。
その歴史から学んで、神様から選ばれた民として神様を畏れ、神様の御計画の中を神様に従って歩むことが求められていることを示されているイスラエルの人たちの歴史を通して、良きにせよ悪しきにせよ、大きな影響を与えられていると言ってもよいでしょう。
この散らされるという恐れは、イスラエルの人たちだけの話ではありません。わたしたちは今、生きている場で生活をしていますが、明日の生活がどうなるのか、一年先、五年先の生活がどこでどうなるのか分からない。安住しているちから散らされてしまうことはないかと、散らされることに対する恐れを抱く心が、わたしたちの心の中にもあります。あるいは、物理的に誰かと一緒にいたとしても、その隣人と心が通じ合っているか、今は心が通じていても、バラバラになって散らされやしないか、という恐れが生じるのです。
今のこの世界において、愛を失い、対立や分断が続いているのは、「サタンの力が働いている」からだと、よく言われています。本当にサタンが実体のあるものかどうかは議論の余地がありますが、聖書に書かれているサタンとは、神様からわたしたちを引き離す力となってしまいかねないものだと考えられています。
わたしたちがいかに主にあって一つになることができるか、心まで散らされやしないかという問題は、2026年の今、コロナ後のわたしたちに突き付けられていることです。神様のご計画に従い、神様の愛の中に生きること、そして隣人を愛することが、わたしたちクリスチャンの信仰であり、希望であり、望みなのです。
4.災い転じて福となる
今日の聖書箇所がわたしたちに示していることは、「状況が悪いから仕方ない」ということではありません。「災いが止むまで待ちなさい」というのでもありません。
8章4節には、「散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いていた。」と書かれています。このことが神様のご計画であることに気付かれます。大迫害の中でも、散らされていった人々によって主イエスの福音が広がっていったということに目を向ける必要があります。
その秘訣が、使徒言行録1章8節に書かれていました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と、主イエスは弟子たちに言われたというのです。今皆さんは、ご自分が、エルサレムにいるとお考えでしょうか。ユダヤでしょうか。異教徒の住んだ地として嫌われていたサマリアだとお考えですか。あるいは、地の果てなのでしょうか。そのいずれにも、主はおられるのです。
この度、故多賀野純子さんと故加茂タツ子さんが天に召されました。ご遺族の悲しみが、今も伝わってきます。杵築教会の悲しみです。そして、主イエスの憐れみと慰めと励ましをいただきながら、なお神の国の前進のためにわたしたちを用い続けてくださいと、お祈りしています。故人の葬儀を通じて、多くのノンクリスチャンの方々に、それぞれの故人の生涯を丁寧に振り返りながら福音をお伝えすることができましたことを皆さんにご報告させていただきます。それが故人の方々の祈りでした。その執り成しの祈りに加えてくださった主なる神様に心から感謝しています。
わたしたちの手の中に与えられている福音の種の力は、神様からいただく恵みそのものです。
福音の種が散らされて蒔かれること、すなわちディアスポラは、たとえ苦しいことや寂しいことがあったとしても、その先にすべてのことを用いてくださるということが神様の約束であり、神様の愛が働いていることなのです。わたしたちの目には厳しく見えることも、すべては主の御計画の中にある恵みの希望の出来事につながっていることだとわたしたちは信じています。それが、主イエスの十字架と復活の真の意味を理解することです。
わたしたちの力が散らされても、「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)ということを、わたしたちは知っています。
ヨハネによる福音書 12章24節に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という主イエスの言葉があります。
主イエスの十字架の死と復活という、ひとつの働き、犠牲が、多くの実を生み出す。一つが多くを生み出す。という主イエスご自身の言葉です。わたしたちクリスチャンの死も同じです。
ご遺族の悲しみと共に葬儀を終えたわたしの心には、特にこれらの主イエスの言葉が響いて来るのです。



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