top of page
検索

主が招いてくださる者(使徒2:37-41) 20260215

  • 2月15日
  • 読了時間: 8分

更新日:4 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年2月15日降誕節第8主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄


(聖書)

イザヤ43章1-7節(旧約1130頁)

使徒2章37-41節(新約216頁)


1.主が招いてくださる者

 

使徒言行録2章37節に、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。」と書かれています。

「大いに心を打たれ」とありますが、心を打たれて平常心ではいられないのです。人々は、居ても立っても居られなくなったのでしょう。ですから、使徒たちに、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねているのです。「どうしたらよいのか」というのは人間誰もが不安になって抱く当然の問いです。

 

同じ問いかけは、使徒言行録を書いた同じ著者のルカが、ルカによる福音書3章(新約105頁)の「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」というところで、群衆が洗礼者ヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねています。また12節では、徴税人が「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ね、さらに14節で、兵士も「このわたしたちはどうすればよいのですか」といった具合に、皆が尋ねている様子を書いています。


それに対して、洗礼者ヨハネは、8節で、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と人々に言っています。

わたしたちはどのように生きたらよいのかと自分ひとりで考え、また周りの人たちから教えてもらいながら生き方を定めています。

聖書にはこうした人々の質問に対して、きちんとその答えが書かれています。聖書の答えは一貫して「悔い改め」だというのです。

「悔い改め」については、主イエスも語っておられます。マルコ1章15節(新約61頁)で、主イエスが伝道を始めるのに際して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰いました。


今日の説教箇所では、人々からの「どうしたらよいのですか」という問いかけに対し、38節でペトロが「悔い改めなさい」とまず答えています。そして、「めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として精霊を受けます。」と語っています。

ペトロは、ここで「悔い改め」→「洗礼」→「賜物=聖霊」という、信仰の道行を示しているのです。


さらに39節でペトロは、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」と語ります。

ここで「主が招いてくださる者」とは、今日この礼拝に集っている者はもとより、この礼拝に何らかの形で与かっている者のことです。神があなたの名を呼ばれ、あなたが神の名を呼び、お互いに名を呼び合う、そのような我と汝の間柄になったときに、神がわたしたちに「約束」されたことがここに示されているのです。

 

本日、私たちに合わせて与えられたイザヤ書43章1節(旧約1130頁)に、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と書かれています。

ここでもイザヤは、ヤコブよ、イスラエルよ、と主が呼びかけて原始のはじめからわたしたちを愛してくださっていることを強調しています。そして、恐れるな、あなたを贖う、あなたの呼ぶ。と主が仰っているのです。


イザヤ書が書かれた当時は、バビロン捕囚の出来事によって、イスラエルが物理的にも精神的にも破壊されてしまったと思われる状況でした。イスラエルと神との関係も切れてしまったと思われる悲惨な状況でした。

それでも主の裁きの先にあっても、神はイスラエルの民を愛し、その関係を何としても取り戻そうと、ヤコブよ=イスラエルよ、とその名を呼んでくださっているのです。

4節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする。」、そして7節には、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」と、神の愛の重要なメッセージが続いています。

神の方からわたしたちの名を呼んでくださり、わたしたちが神の名によって集められ、神の名を呼ぶようになる、それが教会という共同体です。教会は、名を呼ばれ、名を呼びあう共同体なのです。


使徒言行録2章22節で、ペトロが「ナザレのイエス」と人間イエスが育ったナザレ(若枝の意)の地を用いて始まったペテロの説教でしたが、36節では、「神は主とし、またメシアとなさった」と父なる神はイエスを救い主、メシアとされたと言って説教を結んでいるのです。


このペトロの説教を聞いて大いに心を打たれた人々がいました。

その人たちが、ペトロとほかの弟子たちに「兄弟たち…」と呼びかけています。わたしたちが現在教会でお互いを「◯◯兄弟」と呼びかけているような交わりがこの時に生まれていたことが分かります。このように教会の始まりの出来事がここには書かれているのです。


 2.悔い改めて生きる

 

わたしたちに求められている「悔い改め」とは、向きを変えることです。今まで向いていた方向と180度反対側に向き直ることです。わたしたちの生き方がガラリと変わることになります。

ここで登場しているユダヤ人たちは、主イエス・キリストと自分たちとは無関係だと思っていました。ところがペトロの説教を聴いて、そうではないことが分かったのです。もうこれ以上、主イエス・キリストに背を向けて生きることはできなくなったのです。多くのユダヤ人たちが向きを変えたのです。


わたしたちは、最初から神の方を向いていたのでしょうか。そうではありません。わたしたちも向きを変えたのです。わたしたちにも同じ出来事が既に起こったのです。ですからわたしたちは今、神の御前で、神の方を向いて礼拝をしているのです。

 

悔い改めることとは、解き放たれることです。わたしは伝道者ですが、伝道者になるという思いが与えられて、神学校で学ぶことが許されて神学生になりました。神学生になると、すぐに周囲から先生と呼ばれて驚きました。このことは伝道者だけの特別なことではなく、すべてのキリスト者に言える表面的な変化です。


わたしたちのキリスト者は、悔い改めることによって生き方の向きが変えられ、キリストの名によってバプテスマを受けて罪を赦していただきました。そして、賜物として聖霊を受けるのです。日曜ごとに教会に出かけて賛美し、主を礼拝していると、周囲から違った目で見られるようになっていくのです。

それが悔い改めて洗礼を受けてキリスト者になるという道行です。しかし、それによって不自由な生活を強いられるというのではありません。窮屈な生活を強いられるのではなく、聖霊を受けてむしろ解き放たれて自由に生きることができるようになるのです。

 

ペトロは40節bで、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めています。「邪悪なこの時代」とは、邪悪な、曲がったという意味です。この世の中が真っすぐな道ではなく、曲がっていることは、誰でも実感しています。この世の中の方を向いて、この世の中に合わせて生きるなら、わたしたちの生き方も当然、曲がってきます。そのように生き方が曲がるならば、とても窮屈な生き方になります。何らかの弊害がでます。疲れるだろうと思います。

聖書はそのような生き方を勧めてはいません。聖書はそうではなく、悔い改めて、すなわち生き方の向きを変えてまっすぐに生きよと言うのです。


まっすぐに生きるためにどうすればよいのでしょうか。

38節の言葉をもう一度お読みします。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と書かれている通りなのです。

すなわちペトロは、悔い改め、生き方の向きを変えて、洗礼を受けて生まれ変わり、赦されて生きる新しい生き方を勧めているのです。それは、聖霊に導かれて、その後の人生を自由に生きる生き方です。


この生き方は、39節で「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」と、ペトロが言っています。


あなたも主が招いてくださる者の一人です。わたしたちの誰もが、主が招いてくださる者としての生き方をし始めるのです。賜物として聖霊を受け、生まれ変わった新しい生き方が始まっているのです。


3.仲間に加わった人々

 

40節では、ペトロはほかにもいろいろ話をしています。

「邪悪な時代から救われなさい」と進めています。それは、詩編78編8節(旧913頁)の「先祖のように頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように。」という勧めを引用しているのです。

すると41節に、「三千人ほど」がバプテスマを受けて仲間に加わったとあります。

「悔い改め」→「洗礼」→「賜物=聖霊」という、道行に方向転換した人々によって、教会が生まれて行ったことがここに書かれているのです。


教会の誕生と共に、教会生活も始まっています。

42節に「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と書かれています。

教会はまさにそういうところなのです。同じ神によって名を呼ばれ、同じ神の名を呼び、同じ教会に集う人々を兄弟姉妹と呼び合うことができるのです。そして礼拝を共にし、交わりを共にし、一つになって歩んでいくことができる、それが教会なのです。

 

わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と復活により、古い自分に死に、新たな人へとよみがえる道が拓かれ、本当のあるべき自分として生きる道が備えられました。


わたしたちが、その恵みに与りながら、自分の罪の現実を受け入れ、真実な悔い改めによって人生の方向転換をしています。

そしてバプテスマを受けて罪が赦され新たな者とされ、キリストと共に教会員相互の交わりをします。パンを裂く聖餐に与かり、祈ることに熱心な者として生き続けることができるようになるのです。


その主に約束された道行をインマヌエルの神と共に励まし合いながら、慰め合いながら歩み続けさせていただきましょう。





 
 
 

コメント


《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2035 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page