主に祈ってください(使徒8:14-25) 20260705
- 7月5日
- 読了時間: 8分
更新日:7月7日
(聖書)
出エジプト記10章1-20節(旧約108頁)
使徒言行録8章14-25節(新約228頁)
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年7月5日の聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨です。
杵築教会伝道師 金森一雄
1.サマリア伝道
使徒言行録8章で、エルサレム教会への大迫害が起こると人々が各地へ散っていきました。フィリポは、ギリシャ語を話す評判の良い信徒として6章5節でステファノの次に名前があげられていた人ですが、8章5節にサマリアの町へ行ってキリストを宣べ伝えたと書かれています。そして11節には、魔術に心を奪われていた人々がイエス・キリストを信じる者たちに変えられて、洗礼を受けていたことが書かれています。そして13節には、魔術師シモンも、「信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしい印と奇跡が行われるのを見て驚いていた。」というのです。
すると、8章14-15節には、「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」と書かれています。
信徒のステファノ、フィリポの働きが先行して、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたという報告が、エルサレム教会にいた使徒たちに届けられ、そしてエルサレム教会から十二使徒のペテロとヨハネがサマリアを訪問することになったのです。
こうして、ユダヤ人の歴史と文化、言語の違いを乗り越えて神の国とイエスの福音がユダヤ人以外にも拡散していくことになるのです。
2.洗礼と聖霊、どちらが先か?
16節に、「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。」と書かれています。サマリアの町の人たちは洗礼を受けたけれども、聖霊が降っていない状態だったのです。聖霊は、神様の恵みによってわたしたちにとって無償で与えられるものですから、いただく順序についてわたしたちがとやかく言う立場にはありませんが、洗礼と聖霊は、どういう順番で起こるのかと考えさせられる出来事がサマリアで起きていたのです。
続く17節に、エルサレムにいた十二使徒のペトロとヨハネがサマリアに赴いて、ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと聖霊を受けたと書かれています。これによって、洗礼を受けることと聖霊による信仰告白の一致が行われ、エルサレム教会と一つになったのです。
使徒言行録の2章38節には、ペテロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と語り、ペテロの言葉を受け入れた人々三千人ほどが洗礼(バプテスマ)を受けたと書かれています。また、コリントⅠ12章3節bには、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」と書かれています。「イエスは主である」と告白して洗礼を受けるのですから、その告白は「聖霊によらなければ」ならないと言うことになりますので、聖霊が与えられることの方が、洗礼を授かることより先なのか、と思います。
洗礼と聖霊のどちらが先に与えられるのかということについて、多くの人の頭を悩ませてる問題となっていますが、はっきりさせることは不可能なようです。人間は聖霊を操ることはできませんが、聖霊が与えられたことは分かります。聖書の中では、聖霊が先に与えられて、洗礼が後に与えられたと書かれていることが一般的ですが、ここで強調されて語られていることは、順番というより、神様は聖霊を与えてくださる方だということが強調され、ペトロとヨハネによって洗礼と聖霊が一致して教会の一致が行われたことです。
主イエスはヨハネによる福音書3章8節で、「風は思いのままに吹く」と言われました。ギリシャ語の「風」とは「霊」と同じ言葉で聖霊のことを言っているのです。わたしたちは、風をコントロールすることはできません。風は目に見えません。
しかし風に吹かれていることは分かります。皆さんは、自分に聖霊が与えられていることが分かりますか。教会の他の人に聖霊が与えられていることが分かるでしょうか。聖霊が与えられていることは、どうすれば知ることができるのでしょうか。
わたしたちは今日、礼拝を献げています。なぜ皆さんは今日、礼拝をしているのでしょうか。日本ではキリスト者は人口全体の1パーセントにも満たないと言うのに、わたしたちは礼拝をしています。なぜでしょうか。自分の中からそういう思いが出てきたからでしょうか。わたしたちは、なぜキリスト者なのでしょうか。
その答えは、聖霊が導いてくださったということです。
わたしたちが洗礼を受けることができたのも、礼拝をすることができるのも、祈ることができるのも、聖書を読むことができるのも、説教を聴くことができるのも、すべて聖霊の導きなのです。
3.聖霊は人間の手で操れない
18-19節に「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」」と書かれています。魔術師シモンは、金があれば何でもできる、聖霊を金で手に入れることができると思ったようです。
ペトロが、「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。」(20節)「お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。」(21節)「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」(22節)お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」(23節)と、連続して手厳しい言葉を用いて答えています。
この場面で、シモンが本当に心から悔い改めたのかと考えさせられます。
シモンは手を置けばポンポンと聖霊を引き出せる、金を持って来てそういう力を手に入れられる、と思っていましたが、そんなことはできるはずがありません。聖霊は自分で手に入れるものではなく、与えられる賜物ですから、そんなことを考えること自体が人間の腹黒さにつながるものと言われかねません。
シモンは、ペテロに指摘されて、自分が聖霊の賜物をお金で買おうとした罪の重大さを悟り、神の裁きが実際に自分に及ぶことを恐れたのでしょう。
24節で、「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」と答えます。
22節で、ペテロに、悔い改めて「主に祈れ」と言われましたが、シモンは、「わたしが主に祈ります」とは言わず、「(あなたがたが)主に祈ってください」と言ったのです。「わたしは罪を犯しました」「赦してください」という悔い改めの言葉はありません。ここを読んで、多くの聖書注解者が魔術師シモンはまだ信仰的に未成熟だった、神との直接的な関係よりも使徒の権威に頼ろうとしていた、「罪を悲しんで悔い改めた」というより、「罰を恐れただけなのではないか」と指摘しています。
ところで、旧約聖書の出エジプト記10章1節-20節の「いなごの災い」をお読みいただきましたが、17節でファラオが、「どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。」とモーセに執り成しを依頼しています。聖書の中で、ファラオは災いが来るたびに、モーセとアロンに執り成しを依頼しますが、明らかに一貫して自ら悔い改めてはいません。
ヨハネの第一の手紙1章8–9節には、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と書かれています。
ここでは、シモンが悔い改めをしたのか、なぜ自分で祈らずに執り成しを使徒に願い出たのかについては、聖書は何も語っていません。読者にそのことを考えさせる形で終わっているのです。
ところで魔術師の名前のシモンとは、ヘブライ語ではシメオン(Shimon / שמעון)です。「(神が)聞かれた」「聞き入れられた」という意味の名前で、聖書の中で10人以上の同名異人が登場しています。ここでシモンが、自分のために執り成しの祈りをしてほしいと願うこと自体は悪いことではありません。神に聞き入れられると信じている者の言葉です。
ですからわたしはこう考えています。わたしたちは、神様に喜んでいただけることをせず、聖霊を悲しませることをしてしまう者であることを悔い改めて神様に告白し、主イエスの赦しを請う祈りを捧げ続けることが大切だということです。
「あなたは祈っていますか」という言葉は、わたしたちを救う言葉となります。そして、シモンが言った「主に祈ってください」という言葉は、信仰がある者が語る言葉です。
神様は、祈るわたしたちに決して悪いようにはなさいません。ですから、わたしはいつも皆さんに聖霊に守られた純真な祈りをすることをお勧めしているのです。それさえあれば、あとは何もいりません。
ルカによる福音者11章13節で、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主イエスは言われています。人間の善意や行動をはるかに超えて、必ずよいものを、聖霊を与えてくださる。それがわたしたちの確信なのです。今週も聖霊に満たされた自らの純真な祈りをさせていただきながら、主イエスと共に歩ませていただきましょう。



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