top of page
検索

目からうろこ(使徒9:1-19a) 20260719

  • 6 時間前
  • 読了時間: 9分

(聖書)

イザヤ書63章8-9節

使徒言行録9章 1~19節a


👇2026年7月19日の週報は下記をクリックしてください

本稿は、2026年7月19日の日本基督教団杵築教会における聖霊降臨節第9主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄

 

1.迫害者パウロの回心

 

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、冒頭の小見出しに「サウロの回心」と書かれています。日本語のパウロは、ラテン語/ギリシャ語名で、サウロは、ヘブライ語/アラム語名で、同一人物が複数の名前を持っていたのです。当時は、ローマ市民としてのラテン語/ギリシャ語名と、ユダヤ人としてのヘブライ語名の二つの名前を持っている人が多かったようです。

今日の説教では混乱しないように、聖書の引用箇所でサウロとする以外は、意識的に一貫して公用語のパウロを用いてお話しさせていただきます。

 

パウロはこの時点までは、「ステファノの殺害に賛成して」いました(8:1)。イエスという名前とその存在は知っていて、教会の人たちはイエスが救い主メシアだと信じているがとんでもない事だと思っていたのです。そればかりか、救い主として主イエスの名を信じる者たちを迫害していたのです。

ステファノは、教会の最初の殉教者となりました。石投げによって殺された現場で、パウロは石投げをしていた人の荷物番をしていました(8:53)。

さらに使徒言行録9章1-2節には、パウロは、「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」と書かれています。

 

ダマスコは、世界でも最も古い継続居住都市の一つで現在もシリアの首都です。

エルサレムから北東へ約220〜250kmもある古代の重要な交易路の交差点で、大規模なユダヤ人共同体が存在していました。

ユダヤ人たちからすると外国の地でしたので、そこに住んでいるユダヤ人のキリスト者を、男女を問わず縛り上げてエルサレムに連行することには現地の許可が必要だったのでしょう。エルサレムの大祭司からの書簡は、この人物はエルサレムの宗教指導者の権威のもとに行動している、という証明となって、現地で「犯罪者の国際逮捕と引き渡し」の協力を求めることができたのでしょう。

 

3節に、「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。」と書かれています。そして4節には、「サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼び掛ける声を聞いた。」と書かれています。聖書には、神あるいは主イエスが、二度名前を呼ぶ場面が出てきます。

旧約聖書の創世記22章11節で、「アブラハム、アブラハム」と、出エジプト記3章4節で、「モーセよ、モーセよ」と呼んでいます。新約聖書でも、ルカによる福音書の10章41節で、「マルタ、マルタ」と、22章31節では「シモン、シモン」と二度呼ばれています。ここでサウロが二度呼ばれていますが、さらに親しみのある母国語でサウル、サウルと二度呼ばれたことが強調されているのです。

主イエスは、「なぜ、わたしを迫害するのか」と仰っています。キリスト者への迫害は、わたし、すなわち主イエスの迫害だからです。わたしたちキリスト者の痛みは、主イエスの痛みです。「迫害」という言葉には、「追い求める」「熱心」という意味がありますが、まさにパウロは、何事にも卓越した熱心な人でした。

 

イザヤ書63章8-9節には、「主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」と書かれています。

キリストは、あなたの痛みはわたしの痛みだと言ってくださる方で、わたしたちを救い、贖い、負い、担ってくださると言っているのです。

 

パウロが5節で、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」」という答えが主からあったと書かれています。

そして8節には、「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」と書かれています。

 

9節には、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」と、書かれています。パウロが過ごしたこの「三日間」は、パウロが教会、すなわち、キリストへの迫害を悔い改めて、新しい者へと生まれ変わるための三日間となったのです。パウロはここから、悔い改め、回心し、赦されて、新しい者になっていくのです。

ここまで、自分の正義を追い求めて教会を迫害するほど熱心に生きていたパウロが、百八十度方向転換をして神様の言葉に熱心に従う者になったのです。

 

2.アナニアの召命

 

10節に、「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。」と、書かれています。アナニアは、ヘブライ語で「アナニ:主は恵みを施してくださる方」という意味がある信仰告白のような名前です。

 

11-12節で、「すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」」と書かれています。

「直線通り」は、ダマスコの街の東西1.5kmの幹線道路で現在も残っています。

そこに「ユダの家」がありました。主がアナニアにパウロが今いるところとして実際に示したことを検証できるように、執筆者のルカがこのように書いてたのです。

 

ところが13節で、「しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」と、アナニアは自分がサウロを訪ねることを渋っています。

 

ここでアナニアが言葉にした、「聖なる者たち」も、「御名を呼び求める人」も、キリスト者のことです。サウロが迫害者として悪事を働く人として有名でした。

そんな人のところへ行けと言われるのですかと、アナニアは思ったのでしょう。

 

15-16節で、そんなアナニアに対して主イエスは、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言われました。

パウロは、主イエスが「選んだ器」です。パウロは、アナニアと言う人の器の中に、主イエスの使命を携えて伝えるための「器」として選ばれたのです。

 

これは、聖書の中の話に限ったことではありません。

わたしたち一人ひとりも、誰かが主イエスの福音を伝えてくれたからこそ、今、キリスト者とされているのです。皆さんのところに来てくれた方がいらっしゃるはずです。その人は、神様が選んでくださった「器」なのです。

主イエスの名という宝をその器に収めて、あなたのところに来て、イエス・キリストの福音を伝えてくれたのです。そしてわたしたちの中にもすでにその宝が入れられているのです。

次はあなたの番です。わたしたちはどこへ、誰のところへ遣わされるのでしょうか。教会はそういう営みが繰り返されて2000年以上続いてきたのです。

 

3.「目からうろこ」

 

16節に、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と書かれています。ここには、主イエスの名のためにわたしたちに苦しみがあることがはっきり書かれています。この苦しみは、わたしたちの器に宝を入れていただいて、それを運ぶ際に伴う苦しみなのです。苦しみの先には祝福がある、そういう苦しみです。苦しみを伴う喜びも与えられます。わたしたちが、肩に力を入れて、その苦しみに耐えるというような苦しみではありません。

 

17節に、「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」」と書かれています。

 

アナニアはここで、「兄弟サウル」と呼びかけています。アナニアは、当初パウロに対して、悪名高い迫害者のところへ行くなんてとんでもないと思っていましたが、ここに至っては、「兄弟サウル」と呼びかけています。教会の横の繋がりとしてパウロとアナニアが和解して結ばれていたことが分かります。最初は周囲から警戒されていても教会の中において兄弟姉妹と呼び合う関係に神様が変えられたのです。

 

12節でパウロは、「アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくださるのを、幻で見た…」と、書かれていたとおりのことがここで行われています。

 

18-19a節に、「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」と書かれています。そして、パウロは目が見えるようになりました。

ここに「目からうろこ」という言葉が出てきます。

わたしたちは、最初から目が見えていた者など誰もいません。

見えなかったわたしのところにも、神様が「宝の入った器」を遣わしてくださいました。だからこそ、わたしも目からうろこが取れて見えるようになったのです。

 

聖書のことを知らない人でも、目からうろこと言う言葉を使っています。「目からうろこが落ちる」という言葉が慣用句として用いられるようになっているのです。

「パウロの目を覆っていたうろこのようなものが落ちて、真実が見えるようになった」というこの場面から、思い込みや偏見がなくなることや、急に物事の本質が理解できるような新しい視点が与えられて、はっと気づく、という意味です。

 

パウロは、目からうろこが取れて、見えるようになるまで三日間かかりました。

わたしたちも祈りたいと思います。今は産みの苦しみにある人がいます。

そのことを知っているわたしたちの目の中にうろこがあるのであれば、それを取り除いてください。パウロがそうだったように、神様が必ずよい時、よい道を用意してくださることを私たちは知っています。

わたしたちの誰もが、パウロのように、その恵みを受け取り、驚き、喜び、感謝しながら、兄弟姉妹と共に歩んでいく道に導かれますようにとお祈りします。

 
 
 

コメント


《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2035 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page