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主の名を呼び求める者(使徒2:14-21) 20260201

  • 2月1日
  • 読了時間: 8分

更新日:6月30日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年2月1日の降誕節第6主日礼拝説教要旨です。 

杵築教会伝道師 金森一雄


(聖書)

ヨエル書3章1-5節(旧約1425頁)

使徒言行録2章14-21節(新約215頁)


1.声を張り上げ

 

今日与えられた使徒言行録2章14-15節には、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。』」と、書かれています。

 

ユダの後任として選出されたばかりのマティヤを含めて全員が立ち上がったと書かれていて、使徒たちが一体となっていることが強調されています。

そしてペトロが声を張り上げています。人間はどうしても知って欲しいという思いが先行すると、自然に声を張り上げてしまうようですが、ペトロの宣教への情熱がほとばしり出ている様子が書かれているのです。

 

今日の聖書箇所のすぐ前の13節に、聖霊降臨時の様子について「しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」と書かれていましたから、ペトロはそれをスルーすることをせず、最初に、自分たちは、酒に酔っているのではありません。聖霊に満たされているので聖霊に酔っているのだ。と、自分たちをあざけっている人々の批判に対して、誠実に、丁寧に答えています。「朝の九時」と言えば、祈りの時間です。当時のユダヤ人は、一日三度祈っていました。ですから、今は朝の九時と言うだけで、酒を飲んでいないことを立証する力があったのです。

 

それからペトロは、旧約聖書のヨエル書3章(1425頁)を引用して、説教の聞き手のユダヤ人の気を引き付けています。

 

ヨエルの終末の預言の言葉を用いて、声を張り上げて主イエス・キリストのことを話し出したのです。そのペトロの姿は、「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」というイザヤ書40章9節の預言の言葉と通じるものがあります。

イザヤがこの預言を語った時は、ユダヤの国が滅び、国土が荒廃し、ユダヤ人の主だった人はバビロンに連れ去られたときです。バビロン捕囚の真只中で、神が自分たちを見捨ててしまわれたと、嘆くような厳しい状況にありました。まさに、人々が希望を失い、預言者も声を失っている中にあって、荒廃とした静けさの中で福音を伝えるために「高い山」に登って声を張り上げよと、山の下の町にいる人たちに向けて主の大きな声が響いて来た状況でした。

 

 2.神は約束なさり、実現される方

 

わたしたちが信じる神は、まず約束をしてくださる恵みと慰めに富たもう方ですが、いきなり神の約束が実現するわけではありません。神の約束から実現するまでの間、わたしたちは神と向き合い、神を信じて約束の実現を待つ必要があります。

今日の聖書箇所においても、聖霊降臨を待って、共に一つになって集まって祈っていた信じていた人々の上に聖霊が降臨したのです。わたしたちは神を信じています。なぜ信じているのでしょう。それは、神がどのようなお方なのかということにかかってくるはずです。こういうお方だから信頼するに足る、だから信じるというのがわたしたちの信仰です。

ペテロの説教では、旧約聖書の言葉を多く引用することによって、わたしたちの信じる神は約束をなさる方であり、またその約束を実現してくださる方であると主張していることに特色があります。

使徒たちは、主イエスから「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われていたとおり、聖霊が降臨するまで、一つになって祈っていました。

聖書をよく読んで、聖書の言葉に基づく行動をしようとしてひたすら待っていたのでしょう。神が約束をされたのだから、その約束は神が必ず実現してくださると信じて、神との信頼関係を築きながら歩んでいる使徒たちの姿なのです。

 

⒊旧約聖書の説得力

 

今日の説教箇所の大半は、旧約聖書の言葉です。

ペトロは説教の冒頭(使徒2:17-21)で、旧約聖書ヨエル書の3章1-5節を引用しています。ヨエル書に預言されている通り、神がかつてこんな約束をしてくださった。その約束が今、このように実現した。と語って説教の説得力を増しているのです。

旧約聖書の引用が次々に行われて、神がかつてこんな約束をしてくださっていたけれども、イエス・キリストによって神の約束が実現した、とつながっていくのです。それが、当時のイスラエルの人々に一番よく届く説教だったのです。

 

今日わたしたちに与えられた聖書箇所は、使徒言行録2章1節からの聖霊降臨直後のことです。使徒たちが置かれていた状況をご理解いただけたでしょうか?使徒言行録2章17節からステファノが、ヨエル書3章を引用しているのには、深い理由があるはずです。そうした観点に立ってご一緒に聖書を調べて参りましょう。

 

17節「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」

 

18節「わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

 

19節「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。」

 

20節「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」と書かれています。

 

そして21節で「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と、逆転人生の救いの言葉が書かれています。

 

17節の、若者の見る「夢」と老人の見る「幻」は、ギリシャ語のニュアンスでは夢は寝ていて見るもの、幻は起きているときに見るものと使い分けています。ヨエル書3章1節では、老人が夢、若者は幻となっていますから、ペトロは見る夢と幻を変えています。ペトロは、男女の違いは勿論、若者 老人の年齢のギャップも超え、すべての違いを超えて、どんな人にとっても救われる道が拓かれていくと言っているので、ペトロにとっては夢も幻も同じなのでしょう。

 

箴言29章18節(1029頁)には、「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」と書かれています。

幻がなければ、民は自分勝手にふるまうでしょう。幻がなかったら、民はみな滅びます。幻、ビジョンがあるからこそ、どんな障害があっても乗り越えていくことができるのです。

 

さて、皆さんにはどのような神から与えられる幻、ビジョンがおありでしょうか?み言葉を神の言葉として受け止めることができると夢や幻が与えられます。

 

神から与えられたものでなければ、幻は妄想になりかねません。それは、聖霊に満たされることによってもたらされるのです。

 

19、20節では、終末、主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗く、月は血のようになると、天変地異が預言されています。そのことは、ルカによる福音書21章7節(新約151頁)で語られていました。終末の主の再臨の時に起こる超自然的な出来事を指していると思われますが、終わりのときには聖霊が注がれ、息子や娘は預言するだけでなく、そのような恐ろしいしるしが天でも地でも起こるのです。

それは、天地万物がその根底から揺り動かされるような時があっても、主イエス・キリストを信じて神により頼む者には、救いがあるという約束です。

 

今の時代は、本当に何が起こるかわからない時代です。しかし、どんなことが起こっても、わたしたちは何も恐れる必要がありません。イエスを主と告白して救われているわたしたちには、その恐ろしいさばきから逃れる恵みが与えられているからです。 

 

⒋主の御名を呼ぶ者

 

実はヨエル書には、もう少し続きがあるのですが、ヨエル書の「主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」という言葉がカットされています。気が付かれましたか?

ヨエル書では「シオン」「エルサレム」という具体的な場所が救いの中心として強調されていますが、使徒言行録では、救いが特定の場所に限定されないことが強調されています。

わたしたちが、「どこにいるか」ではなく「主を呼ぶかどうか」が重要だということが強調されているのです。

 

そして、ペトロは21節の「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる。」 という預言の言葉の引用をしているのです。

 

今日わたしたちに与えられた聖書から学べることは、第一に、聖霊降臨の直後に聖霊の働きによってペトロの説教が生み出されたことです。教会の宣教は、人間の計画ではなく聖霊の導きによって始まるということです。

そして第二は、多言語で同時に語られたというペンテコステの奇跡の出来事だけに目を向けるだけでなく、使徒たちが立ち上がって、人々が朝から酔っているのではないかと思われていたことに対して、ペトロが正しく説明している姿勢です。

そして第三は、イスラエルの人々の心に届く旧約聖書の言葉を用いてキリストを宣教し始めたということです。

 

そして、聖霊が与えられると同時に福音宣教が始まり、その結果約三千人が教会に加えられた(使徒2:41)ということに驚かされるのです。

 

現在のわたしたちの教会においても、聖霊に満たされてみ言葉を共に聞くことによって、皆が一致した同じ幻を見ることができます。

その約束を実現していただくために必要なことは、ペトロが行ったように、主にすべての権限をお委ねして、聖霊に満たされて「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と声を張り上げて叫ぶことです。

 

主は、わがままなわたしたちの願い通りに約束を実現してくださる方ではありません。わたしたちにとって最もよい形で、またわたしたちにとって一番良い時に約束を実現してくださる方なのです。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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