主イエスの十字架と復活(使徒2:22-36) 20260208
- 2月8日
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更新日:4 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年2月8日の降誕節第7主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編16編1-11節(旧約846頁)
使徒言行録2章22-36節(新約215頁)

1.十字架
使徒言行録2章22節では、ペトロが、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」と語り始めています。
ルカによる福音書24章49節で、復活された主イエスが、弟子たちに「わたしは、父が約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と仰っていましたが、それを信じた大勢の人々が一つになって集まっていると、「聖霊降臨」の出来事が起こりました。そこに集まっていたに人々は、5節に「(ユダヤを離れて)あらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」、10節に「ローマから来て滞在中の者」、そして11節に「ユダヤ教への改宗者」と書かれています。
そして、14節からペトロが説教をし始めました。
最初に聴衆に向かって、「イスラエルの人たち」と呼びかけています。
「イスラエルの人々」という呼び方は、創世記32章23節のヤボクの渡しを渡った後の夜明けの「格闘」で、ヤコブに「これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」という出来事を思い起こします。さらに、アブラハムの契約、モーセの律法、ダビデへの約束といった、旧約の時代のなかで神が選ばれた民イスラエルに向けて語っている、という強いペテロの意思を示す言葉です。
実際、この時のペテロの説教は、ヨエル書、詩編、ダビデ契約など、旧約聖書を土台にして、36節の「イエスこそ約束のメシアだ」と論証していきます。だから、「あなたたがたが十字架ににつけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と展開されていくのです。すなわち、聖書の物語の続きとして、今の出来事が起きているのです。というメッセージを込めて「イスラエルの人たち」と呼びかけたのです。
続いてペトロは、「ナザレの人イエス」と言っています。ナザレは、イエスの育った田舎町の名前でヘブライ語の語源は、木の「若枝」という意味だと言われています。その若枝として育ったイエスこそが、神から遣わされた方であると告げているのです。
そして「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。」と、告げているのです。
さらにペトロは23節bで、「あなたがたは、律法を持たない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と、ペトロが語っていることは、他人事じゃなくあなたたちの問題なのですよと、当事者意識を促すためにかなり踏み込んだ言い方をします。
それはいったい誰のせいなのか。誰の責任なのか。と、一人一人に問いかけ、「あなたがたは…十字架につけて殺してしまった」、その責めは、「あなたがた」にあるとペテロが言っているのです。
それを聞いた人が、わたしの罪のゆえにわたしがキリストを殺してしまった、という悔い改めの信仰を持つか持たないかが問題です。聴衆一人ひとりが神の御計画を受け止めて真正面から受け入れられるかどうかにかかってきます。
それでは、今この聖書箇所を共に読んでいるわたしたちは、どのような立場にいることになるのでしょうか。
キリストが十字架で死なれたのは、いったい誰のために死なれたと、わたしたちは聞けば良いのでしょうか。
この問いは、とても単純な問いなのです。
キリストがわたしたちの罪のために死んでくださったということになると、言い換えれば、わたしたちがキリストを殺してしまったと言うことにもなるのです。自分もその殺人者の一員、仲間だと認めることになると感じられると思いますが、主イエスが十字架上で殺されてしまったと言っても、そこで終わりにはなりません。
2.復活
24節で、ペトロは、「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と、ペトロが語っています。
死は取り返しがつかないことです。しかし神に取り返しがつかないなどはないのです。神は、キリストを復活させて死を乗り越えさせてくださったのです。
ペトロの説教の聴き手は、ユダヤ人教会のユダヤ人で最初期にイエス・キリストによる洗礼を授かった人たちでした。
彼らは、ペトロの語る「あなたがた」とは、自分たちのことだと受けとめました。そして悔い改めて洗礼を受けて、そこに教会が生まれていったのです。
25-28節でペトロは、「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」と力強く語っています。
ここでペトロは、詩編16編8-11節のダビデの言葉を引用しているのです。ダビデ王は、神から永遠の約束の契約を受けたユダヤ王朝の祖であり、自分自身の罪と悔い改めを通して神に立ち返った信仰者であり、真に人々から尊敬された過去の王である、ということにとどまらず、将来のメシア希望の原型となる将来の希望を照らす王なのです。
そして続く29節で、「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。」と告げています。ダビデが葬られたことについては、列王記上2章10節に、「ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた。」と書かれています。ですから、ペトロもユダヤ人たちも、ダビデ王の墓がダビデの町のどこにあるのかをよく知っていました。ペトロは、ダビデ王が偉大な王であり、キリストのことも前もって知っていたと語り、その名声を馳せたダビデ王でさえ、死んで葬られて、今もそこで眠っているではないか、とペトロは言っているのです。
そして、30,31節で、「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」「そして、キリストの復活についても前もって知り、『彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」と、詩編16編の10節を引用しています。
32,33節でペテロは、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けてくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」と言っています。主イエスは、十字架の死の直後、墓に葬られましたが、三日後にはよみがえられたのです。
さらに34-35節でペトロは、「主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」」と、詩編110編1節(旧約952頁)を引用しています。
そして36節で、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と、主イエス・キリストのことをメシアであると宣言してこの説教を結んでいるのです。
キリストは復活してよみがえられて、天に上げられ「神の右」におられます。「神の右」とは、神と等しいところという意味です。キリストは墓に閉じ込められたままなのではありません。地上の一箇所だけにおられる方でもなくなりました。キリストは場所にとらわれない方になったのです。
そして今も、主イエス・キリストは皆さんの心の中にいてくださるのです。
3.霊と真理をもって
ペトロのこの時の説教は、終盤に向けて、ペトロの説教を語る口調も強くなっていきます。ペトロは聖霊に示されて、ふんだんに旧約聖書の言葉を引用しながら、神の約束の中にあるイスラエルの歴史をふまえて主イエスの十字架と復活を語っているのです。ペトロの最も訴えたかったのが、この点なのです。
神がイエス・キリストを復活させてくださった、イエス・キリストは死や罪の敗北者にならなかったのです。
確かに主イエスは十字架につけられ、殺されました。そして墓に葬られ、陰府にまで降られました。しかしそこから復活されたのです。そして、この十字架と復活の出来事は、わたしたちのすべての信仰の土台になるものなのです。
わたしたちが今接している使徒言行録は、場所の広がりを持っている書物だと言えます。ユダヤ人たちは、エルサレムという場所にこだわりましたが、キリスト者はそうではないのです。キリスト教会は最初から場所へのこだわりを持っていません。
ペトロたちは今、エルサレムにいます。ペトロが説教を語り、ここに教会が生まれました。
使徒たちはその後、皆が一緒に行動したわけではありません。別々に伝道をしていきます。世界の各地へと散らされていったのです。
使徒言行録の後半にはパウロが出てきますが、かなりの広範囲にわたる旅をしています。使徒言行録とは、使徒の伝道旅行の記録です。
その使徒たちの旅の中で各地に教会が生まれ礼拝が行われていきます。
わたしたちの杵築教会について申し上げれば、神はこの杵築の地を礼拝の拠点として136年前に示してくださいました。136年の歴史の上に、今わたしたちは神の御計画の中にあって、わたしたち一人一人がここに集められ、主イエス・キリストのもとで養われているのです。
わたしたちは、「霊と真理をもって」(ヨハネ4:24)礼拝しています。
杵築教会の働きにおいても、主イエスの聖書の言葉がまさに実現していくのです。そのことをこれからもご一緒に体験させていただきましょう。



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