二種教職制が抱える問題と課題(マタイ28:19-20) 202606296月29日読了時間: 7分更新日:1 日前本稿は、九州教区「2026年度第一回「教師問題学習会」における課題レポートです。杵築教会伝道師 金森一雄 先ずは、2014年3月11日付けの「日本キリスト教団九州教区『二種教職制が抱える問題と課題』(九州教区学習資料)から、押さえておくべきポイントを整理してみます。この問題は、日本基督教団「教憲第9条」の「教師はこれをわけて、正教師および補教師とする」と、二種の教師があることから始まります。そして「教規第104条」には、「教会担任教師の執行する教務」として、(1)礼拝、伝道および信徒の信仰指導」、(2)聖礼典の執行、(3)結婚式、葬式その他の儀式、を執行することとされていますが、「ただし、伝道師は、第2号の「聖礼典の執行」をすることができない。」と定められていることです。さらに関連する事柄として、教規第7条第2号、教規第63条第2号で「教団総会議長、副議長および書記」の被選挙権が「正教師の(たる)議員の中から」とされていて補教師が除かれていること、その他教規第66条第4号、第103条、第12条第2号、第123条第1号にも正教師、補教師の二種教職制を前提とした関連教規条項があります。第76回九州教区総会で第44回日本基督教団総会に提出することとして決議された『教憲9条を改正し、伴って関連教規条項を改正する件』(以下「第76回九州教区総会提出議案」という)の提案の中で整理されていますので詳しくは,それをご覧ください。この問題の発端について厳密にいえば、1939年に宗教団体法が制定されて、教団統理者、教会主管者を置くことと、それらは教師たる者を充てると決められたことにあります。宗教団体法第3条では、教師の実質的な内容は定められていませんので、教会の教規の中で「主管者」、「教師」を具体化することが義務付けられることになりました。そして1941年に設立された日本基督教団においては、それまでに教師候補者(教師試補)が存在していたことから、教師と教師試を一律に教師とすることもできないとして、正教師および補教師という二種教職制度が生み出されたのです。1945年10月に、宗教団体法は廃止されました。そして1946年10月に開かれた第4回日本基督教団総会において、新しい教憲、教規が作成されましたが、ほぼそのまま(表現がわずかに変わっていますが)制定されたのです。1970年7月、第17回教団総会に教憲第9条の条文を「本教団の教師は、神に召され正規の手続きを経て献身し、按手礼を領した者とする」として、これに伴う教規、関連規則の変更を第18回教団総会に提案できるように常議員会に準備させることになりましたが、いわゆる「教団紛争」の激化に伴い、以降の教団総会で毎回継続審議扱いとなりました。この間にも、1982年から「三委員会連絡会」(教師委員会・信仰職制委員会・教師検定委員会)が教師制度や教師検定制度のあり方について検討を重ねるという努力がありました。そして、1988年第25回教団総会において、全教区の議員が揃う教団総会開催まで審議を凍結するという決議がされています。一方では、1991年には兵庫教区総会が、補教師による聖礼典の執行の可否は個々の教会の判断によるとの決議を行いましたが、教憲教規の趣旨に反する教区等の決議は無効であることが確認された出来事がありました。その後1992年第27回教団総会は、全教区の議員が揃う総会となりましたが、二種教職制をめぐる本格的な議論がなされる機会は多くはありませんでした。そして教憲第9条検討作業委員会は、2006年2月第34総会期第4常議員会に「これ以上の検討作業継続は困難である」との最終報告を提出するに至っています。このように、本問題は日本基督教団の歴史の中で諸先輩方が語りつくせぬ様々な努力を行ってきている問題です。今般、わたしたち九州教区で作成した、第76回九州教区総会提出議案の(提案理由)の中に、「補教師と言う制度の中に訓練機関としての有用性を見出す層が現れてきた」、「二種教職制度に対する問題意識が、時の経過と共に退行してきたことは否めない」という現状認識が書かれていますが、今回のレポートの課題として、教団の教師として立てられていくことの意味について問われていますので、その点について以下記述させていただきます。 主なる神は何を望んでおられるのでしょうか。この間主なる神は、何も変わっておられないと思います。主イエスは、マタイによる福音書28章19-20節で「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と、大宣教命令を語られています。第一の、出て行って、すべての人を弟子にするということは、単に人々に信仰を持たせるだけでなく、イエスに従う生き方へ導くことを意味しています。そのことがキリストを頭とする見えない教会の体を構成するわたしたち信仰者すべての使命である、と主イエスが仰っています。三位一体の主なる神を頭として、その体である正教師も補教師も教会役員も教会員も、それぞれの固有の機能を働かせて、主にあって一体となって神の国の前進を果たしていくことが必要だと、わたしは考えています。第二に、父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」と言うことについては、三位一体の神の名によって神との新しい関係に招き入れている人々のことを差し置いて、洗礼(バプテスマ)の執行者が誰であるかということに目が行きがちであることを戒めなければならないとわたしは考えます。日本基督教団においては、神の権能が委ねられて神の名による洗礼(バプテスマ)を付与する働きをする者は、現在の二種教職制によって正教師でなければならないと定められていますので、三位一体の神の名による聖礼典を執行する権能が補教師には委ねられていない、補教師には洗礼(バプテスマ)を執行することが禁じられているということです。もう一つの聖礼典である聖餐についても同様です。聖礼典の執行とは、それまでの主の招きと選びがあり、そしてわたしたちの宣教への祈りと働きが結集されて、主なる神の名によって執行されるものです。ですから、教会が主にあって一致して、お互いが協力することによってすべてを統べ治められている主イエスキリストの恵みに感謝しながら、聖礼典を執り行い、喜び溢れて歩んでいくことが求められているものです。わたしたちが二種教職制に関わる教憲教規問題を論じる場合には、日本基督教団が合同教会として発足するときにそれぞれの立場を尊重しながら制定した歴史的背景を知り、二種教職制導入時以降にも今日まで多くの議論を重ねてきたことに意味があったことを忘れてはならないと思います。そして今もなお、21世紀の合同教会における聖礼典の在り方として、新しい目でこの問題を検討していかなければならないと、わたしは考えます。その場合に、教師検定規則第8条第1項の再度の見直しや第10条の補教師の成績顕著なるものとして教区常置委員会の推薦ある者に対する規定の運用や「正教師推薦」規定の見直し変更や運用の弾力化などについても、現状を踏まえて実効性のあるものにする検討をする必要があると、わたしは考えます。第三の、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるというこの約束は、今ここにも主が聖礼典に招いてくださっている方がおられるということと、過去、現在、未来と主なる神の権能が揺らぐことがないことが語られているものです。わたしたちにとって、主イエスの大いなる励ましと希望の言葉として、日々の牧会においても礼拝説教の中でもそのことをこのことを大胆に語り続けています。伝道師として赴任した杵築教会におけるこの二年間において、周囲の正教師の方々のご協力をいただきながら、これらの問題に対応させていただくことができましたことを感謝してご報告いたします。そして、ラインホルド・ニーバー の「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静さを、変えるべきものを変える勇気を、そしてその二つを見分ける知恵を与えたまえ。」という平静の祈りを続けたいと思います。
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