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信じた人々の群れ(使徒4:32-5:11) 20260329

  • 3月29日
  • 読了時間: 9分

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年3月29日受難節第6主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄               


(聖書)

詩編23編 1節-6節(旧約1099頁)

使徒言行録4章32節-5章11節(新約220頁)


1.新しい生き方

 

32節に、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と書かれています。

信じた人々は、神の独り子主イエスが、わたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、わたしたちの罪を贖い、赦しの恵みを与えて下さったと信じたのです。そして神の救いの恵みに共にあずかるという信仰に生きるのです。

 

わたしたちは受難節からイースターに向けて、讃美歌21の306番『あなたもそこにいたのか』を賛美していますが、その詩の言葉どおり、初期の教会の信じた人々の群れは、主イエスの十字架によって赦されなければならない罪人であることを受け入れ「わたしはふるえてくる」という信仰を共有していたのです。

お互いが罪人で、神に赦していただかなければ生きられないということにおいて、心と思いが一つになったのです。

 

ここでは、32節の「心も思いも一つにし」という言葉が前提となっています。

まず心と思いが共有されて、それから持ち物すべてを共有していたというのです。33節の後半には、「人々から非常に好意を持たれていた」と書かれています。

2章の46,47節(新217頁)にも、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」と書かれていました。

教会の人々が、復活された主イエスと結ばれることによって与えられた新しい命に生きる新しい生活は、周囲の人々から驚きと好意を持って見られ、新しい生き方となっているのです。

 

そして34,35節には、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と書かれています。

「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」というのは、申命記15章4節(旧約305頁)の「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが」と書かれていることを意識した表現です。

この出来事は、信仰者の自発的な意志によって起こったもので、心も思いも一つになって、物やお金の分かち合いによって皆が支えられ、神の救いの恵みが実現されているのです。

 

その後に、「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き」と書かれています。

「使徒たちの足もとに置く」という言葉が意味していることは、自分のものを、自分のものだと主張しないということで、自分の権利に固執せず、そういう権利の主張や損得にこだわる思いから解放されて、人のために、兄弟姉妹のために喜んで用いる用意があるということです。復活された主イエスと結び合わされて新しい命を生きる信仰者の新しさが表れていることを示しています。

 

そして、「その金は必要に応じて、おのおのに分配されていたからである。」と、実際のお金の用いられ方が書かれています。「必要」という意味は、欠乏、欠けを示すものであり、それに応じて分配されたのです。つまり、財産を売ったのは、教会の仲間たちの間に貧しい人、支えや助けを必要とする人がいるからで、都度、皆が自発的に財産を売って献金して分配されていたというのです。

 

ここに書かれている最初の教会の人々は、自分のものを自分のものだと主張する思いから解放されて、全く自発的に、仲間たち、兄弟姉妹のために喜んで自分の財産をささげ、分かち合って生きている、そのような姿として描かれています。

それは、皆が経済的に裕福だった、ということではありません。教会には貧しい人もいました。そこに、復活された主イエスと結び合わされて与えられた新しい命を生きる、全く新しい生き方が現れ出ているのです。聖霊がわたしたちを生まれ変わらせるのです。そのことが、最初の教会において起ったと書かれているのです。

主イエスを信じ、復活の恵みにあずかった信者たちが、新しくされ、心も思いも一つにして自分の権利の主張から解放され、自分に与えられているものを他の人のためにささげ、分かち合っていく新しい生き方をしていったのです。

 

2.主は羊飼い

 

詩編23編には、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と書かれています。神が羊飼いとして、わたしたちを養い、守って下さるから、何も欠けることがない、乏しいことがない、という恵みの内に生かされる様子が書かれています。欠けることがない、乏しいことがない、貧しい者がいない、という神の恵みは、復活された主イエスによって新しい命を与えられ、自分のものを他者のために献げ、分かち合っていくという具体的な新しい生活を生きていくことによって、詩編23編に書かれている恵みが実現していくのです。

 

そして36節に、レビ族の人で本名はヨセフですが、使徒たちからバルナバ-「慰めの子」という意味-と呼ばれていたと書かれています。新約聖書の中で28回もバルナバという言葉で登場する人物がここで初めて登場しています。

エルサレム教会の大迫害について書かれている使徒言行録8章1節において、教会を荒らし、男女を問わず牢に送っていたサウロがダマスコで回心しましたが、その直後からバルナバはサウロをサポートしています(使徒9:27)。その後、バルナバとサウロがキプロス宣教に霊霊によって送り出されますが(使徒13:4)、サウロがパウロと呼ばれるようになってからも共に宣教活動をしています。

 

使徒言行録11章25、26節(新236頁)には、「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れて帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオケアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と書かれていて、バルナバは回心したサウロを使徒パウロに至らせる手引きをした人だと書かれています。

 

13章4節(新236頁)には、キプロス宣教に送り出された二人はバルナバとサウロという順で書かれています。そして9節でパウルスという地方総督を魔術師エリマがこの信仰から遠ざけようとしたときに、「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけ」たと、パウロの名前が登場して、13節以降からは、「パウロとその一行」とか、「パウロとバルナバ」と書かれて、二人の順序が入れ替わっています。そこまでずっと長老のバルナバは、パウロを使徒として引き出すための神の器として用いられたのです。

 

また、主イエスの最初の弟子となったアンデレのことを思わされます。アンデレは、兄弟であるシモン・ペトロを主イエスのところに連れて行った働きをしています。人はそれぞれに、神の前で尊い働きが与えられています。大谷翔平でさえ二刀流までです。ドジャースをワールドシリーズ三連覇に一人では導けません。

人間社会では表に立つ人、裏にいる人、色々な立場や組み合わせが大切です。

 

それが教会においては、主にあって一つになっていくのです。これは一人一人がただ主に向かう、主の恵みと使命を受けて行く、わたしたちは主の体ですからそこに期せずして現れる、主にある一致、主の働きが現れるのです。

4月5日のイースター信徒修養会で『教師と信徒のコラボレーション』を学びますが、主のご用を果たすわたしたち一人一人のあり方を感謝して受け止めたいと思います。

 

そのバルナバが、「畑を売ってその代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」と書かれています。畑は当時、生活の基盤となる大切な財産です。それを売るというのは、自分の将来の保障を手放すことを意味します。

ルカは、「持ち物を共有する」ということを、神への信頼、他者への愛と分かち合い、自己中心ではなく共同体中心の生き方を示す模範として、「慰めの子」という意味のバルナバを登場させて、バルナバが「自分の生活よりも神と共同体を信頼する」信仰を自ら行動で示した出来事をたとえとして強調しているのです。

 

3.アナニアとサフィラの出来事

 

そしてそのすぐ後に、ルカは、もう一つのたとえで人間の罪を描きます。

5章のアナニアとサフィラの物語は、二人で相談して土地を売り、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた物語です。

ペトロは5章3、4節で、「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。・・あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と、叱責しています。

 

アナニアとサフィラは、二人で相談して、自分の土地を売った代金の一部ですとは言わずに、その代金の全部だと言ってささげました。心から喜んで他の人と分かち合おうという思いからしたことではなく、自分の名誉や対面上の評判を保つことが目的になってしまったのです。悲しいかなそこでは、主イエス・キリストの十字架と復活による神の恵みが共有されません。

問題なのは「全部献げなかったこと」ではなく、献げたふりをしたことなのです。その結果、二人は命を落としています。

 

そして11節に、教会全体に大きな恐れが広がったと書かれています。

人々が恐れた理由として考えられることは、アナニアとサフィラの出来事によって、神の聖さと裁きの現実を目のあたりにしたからでしょう。

 

単なる人間の欺きでは済まされず、「神を欺いた」と厳しく裁かれたためです。

神は愛だけのお方でなく、聖く正しい方であるという、神への畏敬(リスペクト)が強く示された出来事だったからです。また、これは「他人事ではない」と、自分たちの心のあり方や誠実さについても深く思わされた出来事でした。

またこの出来事は、教会の中で起きた出来事であり、神がこの共同体の中で本当に働いているという現実が明らかにされて、軽い気持ちでや偽りは通用しないことが強く示されたもので、外面的に立派に見せようとする心、偽善への強い警鐘なのです。

 

聖書全体では、外見だけ整える信仰は繰り返し批判されています。

神は行為の「量」よりも「質」、すなわち「真実さ」を見ておられるのです。

信仰共同体における偽りは深刻な問題であって、教会は神の前に立つ聖なる場であり見せかけの信仰を偽善として厳しく戒められています。

 

このアナニアとサフィラのような聖霊によって新生されていない古い生き方には、復活された主イエスから与えられる新しい命がないし、その命を生きる新しい生活もないこと、そしてわたしたちが、主イエスの復活の命によって新しく生かされ、神の恵みに満たされた本当に魅力ある生き方へと招かれていることをルカは強調しているのです。

 

すなわちルカは、バルナバが励まし、慰め、寛大さに富む性格であることを語る一方で、アナニアとサフィラの人間の性、罪を語ることによって、教会は単なる人間の集まりではない、神の臨在の中にある「聖なる共同体」であると強く印象づけて書き記しているのです。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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