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励ましの言葉(使徒13:13-43) 20260920

1 時間前
読了時間: 8分

(聖書)

申命記30章 15~20節 (旧約329頁)

使徒言行録13章13節-43節 (新約240頁)


ピシディニア州のアンティオキアの遺跡
ピシディニア州のアンティオキアの遺跡

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年9月20日の聖霊降臨節第18主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


(説教)

 

13節の小見出しに、「ピシディア州のアンティオキアで」とかかれていますから、今日の聖書個所の舞台となるキプロス島とピシディア州のアンティオキアの位置関係を確認しておきましょう。「7パウロの宣教旅行1」をご覧ください。地図の真ん中下部の地中海に浮かぶ島がキプロス島です。

地図の東側中央の地中海沿岸の宣教旅行の出発点であった「シリア州のアンティオキア」から、キプロス島東岸のサラミスから西端の港町パフォスに陸路で移動し、そこから船出して地中海を北西に向かって大陸側に渡ったのです。上陸した港は、現在のトルコ南部地中海沿岸にあったパンフィリア州のペルゲです。そこから北上して「ピシディア州のアンティオキア」があります。

 

使徒言行録13章13節に、「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。」と書かれています。マルコと呼ばれるヨハネがなぜここで離れてエルサレムに帰ったのかは書かれていません。

 

使徒言行録15章37-39節(新244頁)には、第2次伝道旅行に出発する前に、この時自分たちと離れたヨハネに対する評価が、バルナバとパウロで一致せず、「意見が激しく衝突し、彼らは別行動をとるようになった」と書かれています。

 

このときは、「バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かって船出した」と書かれています。一方パウロは、晩年になってⅡテモテ4章11節(新395頁)で、「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」と言っていますから、彼らは互いに離れていても共に主の働きをしていたことが分かります。

 

います。ヨハネはキプロス島に関係がある人間だったと考えられますので、自分にかかわりのあるキプロス島伝道が終わったので帰ったのか、別の務めがあったのかもしれません。ここでは、パウロとバルナバは伝道旅行を続けます。

13節からは、「パウロとその一行は」と書かれています。また14節で「パウロとバルナバは」と、パウロの名前が先に書かれるようになります。これまでは、バルナバが主導権を握っていた状況でしたが、このあたりからパウロが主導権を握る状況へと変わっていくのです。


14節に、「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。」と書かれています。。ベルゲから高い山々を越えていったのです。ここに出てくるアンティオキアは、トルコの標高千百メートルの地域に大きく広がっているアナトリア高原にある街で、ローマ帝国の内陸交通網において重要な位置を占めていた都市でした。この地域を通る道路が整備され、アンティオキアは周辺地域へ影響を及ぼす中心都市になっていました。交通・商業・政治・宗教の中心地に入り、そこから周囲へ福音が広がっていくことを期待したと考えられます。しかもユダヤ人会堂がありました。

 

15節で、会堂長たちから、「兄弟たち、何か回収のために励ましのお言葉があれば、話してください」と、説教することを求められています。

外国の地とはいえ、ユダヤ人たちが集まる会堂での説教ですから、パウロは、イスラエルの歴史を大胆に語っています。

 

17節で、イスラエルの神が、イスラエルの先祖を選び出し、エジプトの力導き出してくださったことから語り始めています。

18節では、出エジプト後40年間荒れ野で神がイスラエルの民を訓練されたこと、そして20節には、その後450年にわたってイスラエルの民を裁くように神が士師たちを任命されたことを語っています。

22節までの説教の前半は、多くのユダヤ人たちにとって聴き慣れた話でした。

 

後半の23節から説教がガラリと変わります。

「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」と語って、後半からは主イエスが前面に出てきます。

そして旧約聖書の引用がたくさん行われています。

 

最初の引用では、サムエル記上16章(旧453頁)の神がサウルを退けてダビデを王の位につけた出来事を語っています。

そして、33節では、詩編2編7節(旧835頁)を用いて、「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」と、神がイエスを復活させて約束を果たしてくださったことを語っています。

 

さらに34節では、「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさった」と、イザヤ書55章2b-3節(旧1152頁)を引用して、「ダビデに約束した、聖なる、確かな祝福を与える」ことを語っています。

 

そして35節では、詩編16編10節(旧846頁)を用いて「聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない」と語り、さらに41節では、ハバクク書1章(旧1364頁)を用いて、神がカルデア人(バビロニア人)を起こしてユダを裁くという歴史的出来事を語り、そして40節で、「預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい」と結んでいるのです。


聴いていた人たちにとって、耳の痛い話がたくさん出てきます。普通には聴けないような話ばかりです。例えば、27節に「また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず…」とあります。今まさに安息日に会堂で預言者の言葉が読まれている状況にある人たちが、「理解せず…」と言われてしまうのです。

 

36-37節で、「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。」と、ダビデと主イエスとの比較がされています。ダビデは朽ち果てたが、キリストはそうではなかった。朽ち果てることなく、今も生きておられる、生きて働いておられる。パウロはそのことを強調しています。

 

だからこそ、パウロは説教の最後の方で、こう語っています。

38-39節で、「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」と語ります。

「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と言われているように、ただ信じることなのです

 

あなたがたは預言者の言葉を聴き損なってしまったのではないか、あなたがたは洗礼者ヨハネの悔い改めの勧めにもきちんと耳を傾けなかったのではないか、あなたがたは主イエスを認めずに十字架に追いやってしまったのではないか、そういう罪の指摘をしています。しかしすべての鍵となるのはただ一つ、主イエス・キリストを受け入れるかどうか、信じるかどうかなのです。

 

旧約聖書に記されている大事なモーセの律法に生きようとしていた人たちに対して、あなたがたは駄目だったと言うのです。

このように、パウロの説教は聴いている者たちにとって、厳しさがあります。

あなたがたが無理解だったから、あなたがたが正しくなかったから、キリストを十字架につけてしまったのだと咎めています。

 

主イエスを十字架につけてしまった自分たちの罪を認めて、お甦りになり、今も生きて働いておられ、私たちに罪の赦しを与えてくださる主イエスのご支配を受け入れるかどうか、そのことにすべては懸かっているのです。

 

しかしなぜこれが「励ましの言葉」(15節)になるのでしょうか。なぜ「この救いの言葉はわたしたちに送られました」(26節)と言えるのでしょうか。確かにパウロは罪の指摘をしていますが、その罪の赦しも語っているからです。赦されたその先にある本当の祝福を語っているからです。

 

ここでパウロが語ったように、説教は罪の指摘と罪の赦しという基本構造を持ちます。もちろん、その日の聖書の箇所によって、直接に罪の指摘や罪の赦しが語られない時もあるかもしれません。しかしそれでも説教は罪の指摘と罪の赦しです。パウロの説教を聴いた聴き手はどうでしょうか。ああ、もしかしたら預言者の言葉を聴き損なってしまっていたのではないか、とんでもないことをしてしまったのではないか、一方ではそう思っていたかもしれません。確かに自分は主イエスの十字架の場面に居合わせたわけではないけれども、自分の罪のために主イエスを十字架につけてしまったのかもしれない。しかし他方で、自分の罪の赦しの道も備えられていた、そのことを知るのです。

 

だからこそ、彼らはまた来週もぜひ話をしてくれとパウロに言うのです。

別の話ではなく同じ話をしてくれ、と言うのです。説教を聴いた者たちは生きておられるキリストと出会うのです。パウロの説教の後半で、パウロが強調しているのは、朽ちることがないキリスト、生けるキリストのことなのです。

 

わたしたちも御言葉によって、生けるキリストと出会うことができます。わたしたちも二千年前のパウロの説教を聴いた人たちのように、罪の現実のただ中にいるのかもしれません。あちこちに、済まないことをした、神さまにごめんなさいと言わなければならない現実があります。

しかしその罪を赦してくださるキリストに出会い、キリストと共に、赦された祝福の中を歩むことができるのです。

 

パウロの説教から受け取る「励ましの言葉」は、神は約束を忘れず、救いを実現してくださることです。

32-33節でパウロは、イスラエルの歴史を振り返りながら、神が先祖たちに与えた約束が福音で、イエス・キリストによって成就されたと語っています。

人間の状況がどれほど変わっても、神の約束と計画は変わらないという励ましの言葉です。まさに主イエスの復活は、希望の確かな根拠となるのです。

38–39節で、イエスは十字架につけられましたが、神は死者の中からイエスを復活させました。その復活によって、わたしたちに罪の赦しが宣べ伝えられ、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」とっています。過去の罪や失敗に縛られず、キリストにあって新しい希望を持てるということで、神の恵みを信じ、しっかり立ちなさいと語っているのです。

 

42–43節では、パウロたちが会堂を出る際、人々が「次の安息日にも同じことを話してくれるように頼んだ。」と書かれています。

そしてパウロたちは人々に、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」のです。信仰生活では、困難や反対があっても、自分の力ではなく神の恵みにとどまり続けることが大切だという励ましの言葉を語ったのです。





 

 
 
 

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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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