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聖霊に送り出される(使徒13:1-12) 20260913

11 時間前
読了時間: 8分

(聖書)

詩編 26編 1~12節 (旧約856頁)

使徒言行録13章1節-12節 (新約237頁)


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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年9月13日聖霊降臨節第17主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄

 

1.聖霊に送り出される

 

1節に、「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。」と書かれていますから、アンティオキア教会には、毛色の違った少なくとも5人の「牧師」がいたようです。

2節に、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」と書かれていますから、彼らが断食して、熱心に礼拝をしたということですが分かります。聖霊が、五人の牧師の中からバルナバとサウロの二人を選び出して派遣しなさいと告げたのです。

 

3節にも「断食して祈り」とあります。アンティオキア教会では、「断食」を伴う礼拝や祈りをしていたようです。

そこでアンティオキア教会の人たちは、聖霊に言われた通り、二人の上に手を置いて出発させています。アンティオキア教会にとって大事な二人でしたでしょう。自分たちの教会のために働いてもらいたいという思うものです。それなのにアンティオキア教会はどうして二人を派遣することを決断できたのでしょうか。


ここには、「二人の上に手を置いて」と書かれています。手を置くというのは、神に召された人を、教会が祈りと祝福をもって、その使命へ送り出すことを意味しています。そして「出発させた」と書かれていますが、ギリシャ語では、結んだ紐を「解く」と言う言葉で書かれていますので、「解き放つ」と訳せます。アンティオキア教会は、礼拝と祈りの中から、神の御心を聴き取り、バルナバとサ

ウロを聖霊に従って解き放ったということです。

 

4節に、「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。」と書かれています。

今日の聖書個所の舞台となるキプロス島とシリアのアンティオキアの位置を確認しておきましょう。こうして時々、聖書の巻末の聖書地図を見ていただくとよいと思います。


「7パウロの宣教旅行1」をご覧ください。

地図の真ん中下部の地中海に浮かぶ島がキプロス島、その東側の地中海を越えて約170 km先がセレウキアの港、そこから25kmがアンティオキアです。こうしてアンティオキア教会を出発点とする新しい伝道の業が始まりました。キプロス島はバルナバの出身地です。


5節に、キプロス島の東岸のサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせたと書かれています。パウロとバルナバは、だいたいどの街でも「ユダヤ人の諸会堂」を巡っていました。

そこにいるユダヤ人たちに語り掛けるところから始め、やがてそれが異邦人へと広がっていくという手順を踏んでいました。

そして、5節bには、マリアを母としてマルコとも呼ばれていたヨハネ、(使徒12:12)を助手として連れていた、と書かれています。


6節で、「島全体を巡って(西側の港町)パフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。」と書かれています。「バルイエス」とは、バルが子という意味で「イエスの子」という意味です。「イエス」という名前は、ヘブライ語ではヨシュアで、一般的な名前でした。

そこで出会った男は、その地での一番の有力者であるパウルスという名前の地方総督と交際をしていた偽預言者だったというのです。総督のお抱えの魔術師だったようで、バルナバとサウロの二人に対抗して、「地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」と書かれています。パウロたちが乗り込んできたので、自分の地位が危うくなるかもしれない、と思ったのでしょう。

 

2.パウロとバルナバ

 

9節で、「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけたと書かれています。この魔術師との対決の最中で、9節から、「サウロ」というヘブライ語名ではなく、ギリシア語名の「パウロ」にいきなり変わっています。4節までは、「バルナバとサウロ」と記されていましたが、4節での魔術師エリマとの対決の場面からは、パウロが前面に出てきています。

そして13節からは、「パウロとその一行は」と書かれ、14節からは、「パウロとバルナバは」と二人の名前が書かれる順序が変えられて、長老のバルナバに代わってパウロが前に出てくることになるのです。その理由は、パウロが聖霊に満たされて魔術師と対決し、勝利したことが大きかったのではないかと思います。

 

バルイエス偽預言者の魔術師エリマが、キプロス島の地方総督パウルスを、主の道から遠ざけて主のまっすぐな道を曲げようとした、というのですから大問題です。

10節で、「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。」と、パウロの言葉が厳しくなります。

 

11節では、「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」と、パウロが言っています。そして、「するとたちまち、魔術師エリマは、「目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。」とまで書かれています。

 

パウロが魔術師に勝利できたのは、パウロがただ聖霊に満たされていたからです。そして奇跡が起きました。

こうして、パウロと地方総督との交わりは、魔術師によって絶たれることなくしっかりと結ばれました。この奇跡が示してくれていることは、教会のまっすぐな道が曲げられることなく、まっすぐなままに保たれたことです。地方総督は、この奇跡を目の当たりにした後、おそらくパウロとバルナバから神の言葉と主の教えを聴いたのでしょう。

 

12節には、「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」と書かれています。奇跡に捉えられたのでも、人間の言葉に捉えられたのでもありません。そのようにして主の教えに捉えられたのです。キプロス宣教においては、たった一人のこの回心の出来事が書かれています。

 

これから、13章以降では、慰めの子バルナバと呼ばれて愛されていたヨセフ(使徒4:36)が中心に書かれていた時代から、パウロ中心となる宣教の時代に移行することを、執筆者のルカは、使徒言行録物語そのものの建付けによって描いているのです。

だからと言ってわたしたちが、「神がバルナバを退けた」と読む必要はありません。この出来事から、わたしたちの教会生活にも大事な示唆があると思います。バルナバに与えられた使命は、「神が立てた人を見出し、その人が働けるようにすること」でした。わたしも大分に来てから、バルナバにお目にかかり励まされています。

 

今日の使徒言行録の中で、13章2節で「バルナバとサウロを、わたしのために選び出しなさい」と聖霊が告げた言葉と、9節で「サウロ、またの名はパウロ」と書かれ、そして13節で「パウロとその一行は」と、バルナバとサウロからパウロに、そしてパウロとその一行へと変遷していくことによって、神の御計画が連続して一本の流れとなって進んで行くことが強調されているのです。

 

3.主に信頼して


今日わたしたちに与えられた詩編26章1節では、「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」と、ダビデが言っています。この節は、困難や試練の中でも「主に頼る」という祈りとして読むと分かりやすいと思います。

 

ここでの「信頼」は、自分の力で揺るがなかったという自信ではなく、ダビデの「主に信頼して、よろめいたことはありません」という言葉で、ダビデが主への信頼を持って、周囲の状況がどんなに揺れても主を頼りに歩む姿勢を知ることが出来ます。

「自分は完全だから裁かれない」というのではなく、自分の歩みを主の前に正直に差し出し、主の正しい判断を信頼しているのです。


9-10節では、「わたしの魂を罪ある者の魂と共に、わたしの命を流血を犯す者の命と共に、取り上げないでください。彼らの手は汚れた行いに馴れ、その右の手には奪った物が満ちています。」と言っています。ダビデにとって、まっすぐな道が曲げられてしまいそうになるような危機が起こったのです。

そして11-12節で、「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」と、ダビデは自分一人ではない、聖歌隊と共にいると語っています。自分と一緒にまっすぐな道を歩んでいる仲間がいて、共に主を讃美すると言うのです。

 

わたしたちが自分の人生を振り返ってみて、主に信頼してダビデのように語れる人生を歩めればとても幸いなことです。自分は一人ではなかった、共に歩む仲間がいたと語れるのが教会です。

罪によってくじけそうになっても、主に信頼してその罪に打ち勝ってまっすぐに歩める道があった、というのが教会の歩む道です。

一人でも多くの方がこの道を歩むことができますように、わたしたちが自分の力によってではなく、主に信頼して主に支えられてよろめいたことはありません、と言えますようにと祈ります。

 

二千年の歴史の中で、主のまっすぐな道を曲げようとする力が働き、困難や誘惑が続いています。しかしそれらの中にあっても、逃れの者、残りの者がいて今日に至っています。このまっすぐな見通しの良い、希望に満ちた道を、主の約束通り導いていただいてこれからも歩んでいくことができますようにと祈ります。

わたしたちは一人ではありません。教会において共に主を讃美し、主の真の道を歩む仲間が与えられていることを感謝いたします。

教会の交わりが絶たれてしまうことなく、ますます愛と献身と祈りに生きることができますように。今この時の歩みを、そしてこれからの歩みをどうぞ守り導いてくださいと祈り願います。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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