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多くのしるしと不思議な業(使徒5:12-16) 20260412

  • 4月12日
  • 読了時間: 8分

更新日:9 時間前

(聖書)

旧約聖書; 申命記15章7-11節(旧約305頁)

使徒言行録、5章 12節-16節(旧約221頁)


本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年4月12日復活節第2主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


👇2026年4月12日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください


 

1.人間の手によって

 

使徒言行録5章12節に、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」と書かれています。神は目に見えないお方で、神は今も生きて働いておられます。

神の業は、わたしたちに働きかけて、人間の手の働きに現れて来る、その手とはわたしたちの手、皆さんの手なのです。「手によって」、この手を通して神の業が現れると聖書は語っています。

 

「使徒たちが、多くのしるしと不思議な業を行った」と書かれているのではありません。神が生きて働いておられるならば、その働きは人間の手によってなされるのです。それは、わたしたちの信仰の原点であると言ってもよいと思います。

 

教会には様々な奉仕の働きがあります。礼拝のため、集会のため、お互いを覚え合うため、それらの手の働きがあります。教会のために祈る手の働きがあります。神の業としての手の働きは、教会だけのことではありません。家族のため、人のため、社会のため、世のための手の働きがあります。聖書においては、自分たちの働きが自分たちの力によるものではなく、神の働きとして人間の手によって、神の業が現れていると受けとめているのです。

 

杵築教会では、創立100周年を記念して礼拝堂と白百合幼稚園園舎と牧師館を献堂させていただきましたが、天から降って湧いたように神様から与えられたわけではありません。神の不思議な仕方で神によって、人間の手が用いられて与えられたものです。多くの信仰の諸先輩の祈りと働き人の手の働きによって、神の業として会堂建築がなされたということです。

 

使徒言行録5章12節に戻りましょう。その神の業は「民衆の間で行われた」とあります。そして続けて、「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが」とありますから、教会の人たち「一同」が集まっていたと書かれているのです。そして13節aに、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」と、ほかの人々の強い反発があったことが書かれています。

「ほかの者」は「だれ一人」と主語を定義してから、「あえて」仲間に加わろうとはしなかったと、かなり気を使った表現を用いていることに気が付きます。

 

そうした言い方をしている理由を聖書から類推してみますと、5章1節からの「アナニアとサフィラ」の出来事が背景にあったと考えられます。

 

使徒言行録5章3節で「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」、4節bで「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と、ペトロが聖性を求める神の厳しさを語っています。

そして、11節には、「教会の全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と書かれています。それから13節で「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と書かれていますので、聖なる神を恐れてあえて近づこうとしなかったということです。それでも、続いて13節bで、「しかし、民衆は彼らを称賛していた。」、14節で、「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」と、書かれています。


すなわち、「アナニアとサフィラ」の出来事によって教会の聖性が強調されたことで、人々は教会の内外に恐れは生じたが、やがて聖性に厳しい神を称賛するに至ったということです。聖なる教会の中に入ることが「仲間に加わること」であり、仲間に加わわらない「ほかの者」は外に留まり仲間に加わらなかった、と書かれているのです。

 

初期の教会形成においては、ただ奇跡を目当てにして教会に集まってきた人たちがいるかもしれません。しかし、本当の意味で教会の境界線の敷居をまたぐということは、まずは聖なる教会であることを知り、その頭が主イエスを救い主だと信じることによってゆるされることだということを語っているのです。そしてそのことを信じた者が洗礼を受けて教会のメンバーとして加えられ、み言葉を聞き、賛美して礼拝していくのです。

 

もちろん、教会の礼拝は誰にでも開かれていて、多くの方に来てもらいたいと思いますが、教会に加えられるのは、「主を信じ」洗礼を受けてキリスト者になり、そして日々悔い改めをして、共に礼拝に集い、賛美し、聖餐に与かることによるのです。このようにして、教会の内と外の境界線は、聖なる神の業によって、教会形成の初期のころからはっきりされていたことが分かります。

 

2.癒しの奇跡

 

15節に、「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。」と書かれています。

 

「ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」と言う表現は、まるで魔術でもしているかのような表現です。

ペトロや教会の人たちがそのように病人たちを並べたのではありません。

 

病人を連れてきた人々がどれほどまでに、病人に治って欲しいと思っていたかという気持ちがあらわされていることなのです。ペテロの影にさえ触れれば病人が癒されたなどとは、聖書に書かれていません。癒して欲しいから自分からやって来た、という人もいたかもしれませんが、しかしそうとも書かれていません。

ただ群衆が病人を連れてきたと書かれているのです。

 

16節には、「一人残らずいやしてもらった」と書かれています。

連れて来られた病人たちがすべて癒されたということです。

このような奇跡をどう考えればよいのでしょうか。聖書には奇跡の話が記されていますが、決して数は多くはありません。特にこのような目覚ましい奇跡は、主イエスご自身がされたものですし、教会の最初期の使徒言行録にだけに限られて書かれています。

 

数は多くありませんが、確かに聖書のところどころに奇跡の話が書かれています。

今日の箇所も、こういう奇跡が起こったから人が増えた、とは書かれてはいません。教会は奇跡を通して伝道をしたということを伝えているのではないのです。

多くのしるしと不思議な業、教会でなされている業は、すべて人間の手の働きを通してなされる神の業であることを教えてくれているのです。

 

旧約聖書の申命記15章7-8節(旧約305頁)には、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」と、短い中で人間の「手」という言葉が二度も用いられています。

 

ここでは、イスラエル共同体の中に、貧しい同胞がいる現実を前提にして書かれているのです。そして、その背景として重要なことは、15章1節の最初に「7年ごとに負債を免除」するという債務免除の制度があったことが書かれていることです。

 

7年目に債務を免除しなければならないからと、人々には、やがて債務が帳消しにされるから貸したくないと思う誘惑がありました。それでも神は、申命記15章10節で、「あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。」と、そして11節には、「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」と言っているのです。

 

先のバブル経済が崩壊したなかで、負債を一部免除する自己破産制度や会社更生法などが活用されました。バブル崩壊による経済破綻という苦境を乗り越えて、人々や会社が復活して生きることを慫慂する制度です。


聖書には、すでに申命記15章1節に「7年ごとに負債を免除」することが書かれています。聖書からその狙いについて3つのことを知ることができます。

 

第一に、ただ同情するのではなく、実際の必要を満たすために、食べ物、お金、生活の助けを具体的に与えることが求められています。

 

第二は、「損をしたくない」「返ってこないかも」という自己中心的な計算で考えるのではなく、 神の民としての憐れみを優先する心が求められています。

 

第三は、負債を免除することで神の民の復活を祈って神の共同体を守ることが求められています。

 

そしてこの教えは、イエス・キリストの教えにそのまま受け継がれ、さらに深められます。「手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」という命令は、単なる施しではなく、神の愛を具体的な行動で表すことです。そしてイエスはそれを、すべての人に向けた無条件の愛へと完成させました。

 

「手の働き」とは、わたしたちがなすことのすべてを指しています。

物理的な手の働きもあるでしょう。足を使って歩いたり、体全体を使ったり、あるいは、体ではなく頭脳を使ったすべての手の働きのことを指します。

教会ではよくわたしたちのことを「働き人」という言葉を使うことがありますが、「働き手」であり奉仕者だという意味です。教会のみんなが働き手なのです。

 

ご高齢の方に対して手紙やメッセージを書くときに、「体を動かしてこういうことをしてください」とは励ましませんが、「祈ってください」と書くことは多いのではないでしょうか。

それは、教会の祈り手となってくださいとお願いしているのです。

祈りこそが、教会としての大事な「手の働き」だからです。

そして、神がわたしたちの手を用いてくださって、わたしたちの教会においても、「多くのしるしと不思議な業」が行われていくのです。

 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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