大胆に神の言葉を語る(使徒4:23-31) 20260322
- 3月22日
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年3月22日受難節第5主日礼拝説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編2編1-12節(旧約835頁)
使徒言行録4章23-31節(新約220頁)

1.教会の交わり
今日の使徒言行録4章23節に、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。」とあります。釈放された二人とは、ペトロとヨハネのことです。
4章3節に、「二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。」と書かれていましたので、釈放されると仲間のところに行ったというのですから、十二人の使徒はもとより、多くの教会の仲間がいたのでしょう。
ペトロとヨハネは捕らえられていましたが、孤独ではありませんでした。
背後に仲間たちがいました。
私たちも同じです。一人ではありません。一人でいるようなときでも、教会での信徒の交わりがあって心を一つにすることができる、祈りを共有することができる、そして聖餐を共にする。それが教会なのです。
日本では一般的には、「交流」とか「交際」という言葉が使われいて、あまり「交わり」という言葉は使われていません。せいぜい「お交わりありがとうございます」と言う程度です。なぜ教会では「交わり」というのでしょうか。それは、聖書の中でギリシャ語でコイノニアと言う言葉が多く用いられているからです。
使徒言行録2章42節には、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と書かれているように、キリストによって救われた聖徒の交わりが教会にはあったと書かれているのです。
使徒信条でも「公同の教会、聖徒の交わり」と言って現在の教会の礼拝でも毎週祈っています。
2.教会の祈り
教会の祈りには、礼拝の中で司式者が一人で祈る祈りがあります。また、献金の祈りのように、奉仕者の一人が教会を代表して祈ります。
毎週水曜日の聖書研究祈祷会では参加者一人一人が祈りますが、最後に教師がすべての祈りをまとめて教会の祈りとして捧げています。
他の集会でも祈ります。
普段、教会を離れてわたしたちが一人で祈っている時も、教会に連なって教会のために祈るのであれば、それは個人の祈りではなく教会の祈りです。
今日の聖書箇所では、ペトロとヨハネが牢から解放されて、教会の仲間たちのところに戻って来たことが書かれています。そして皆で、情報を共有しています。それからペトロとヨハネの話を聞いた教会の人たちは、心を一つにして祈りを献げました。
その祈りが、24節以下に書かれています。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」と祈っています。
つまり、旧約聖書で、天地万物(宇宙のすべて)を指す表現として「天・地・海」という言葉を用いて、神が創造主であることを賛美して祈りが始まっています。
25,26節に、「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』」と、司式者が先ほど聖書朗読してくださった詩編2編1,2節のダビデの言葉を引用しています。
そして27節では、「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。」と祈っています。
詩編の「地上の王たち」と「指導者たち」は、新約聖書の時代のヘロデとポンティオ・ピラトにかさなります。
神がメシアとしてお立てになった主イエス・キリストを彼らが十字架に架けて殺してしまった、ということが預言されていて、この世の中の指導者たちが、神とメシアであるキリストに逆らったことを指し示しているのです。
そして28節には、「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」と書かれています。
ペトロとヨハネの二人は、主イエスが復活した後、使徒たちがイエス・キリストこそが救い主であると宣べ伝えているのです。
それは詩編2章に書かれている言葉が、本当に実現したのだ。
あらかじめ定められていた神の計画を実現するように、キリストは復活し、罪と死の力に打ち勝ってくださった。これらすべてのことが行われたのだ。と言っているのです。
すなわち、神とメシアに逆らって、イエス・キリストが十字架に架けられてしまったように見えるかもしれませんが、主イエスが人間の罪を背負って十字架で死なれることが、神のご計画であったということなのです。
3.み言葉に生きられるように
29,30節では、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」と祈っています。
日本語訳だと分かりづらいのですが、30節は29節に付随する祈りです。
29節があって、その前提で30節の祈りが出てくる構造で書かれていて、「教会の祈り」として、願い求めていることが最もよく表れているのです。
困難の中、み言葉に生きられるように、そしてみ言葉を聴く中で、癒しなどの神の業が現れるように。
それが教会の祈りとして、ささげられているのです。
この世界は神とイエス・キリストと聖霊に逆らうものになっています。
詩編2編で預言されていた主に逆らう出来事が、二千年前に「ヘロデとポンティオ・ピラト」によって実際に起こりました。そして今なお、まったく同じ状況にあって、同じような出来事が起こり続けています。困難はなくなりません。変えられないかもしれません。しかし、困難はあるけれども、困難の中にあっても、み言葉が語られ、み言葉を聴いて生きていくことができるように、という祈りがここではなされているのです。
4.大胆
31節に、「祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」と書かれています。
29節にも「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」と書かれていました。2度にわたって出て来る「大胆」という言葉は、聖書の原典ではギリシア語の「パレーシア」が用いられています。
古代のアテネで、世界で最初の民主主義が生まれましたが、民主主義を支える言葉が、「パレーシア」という言葉で、その意味は、包み隠さず話すこと、公に話すこと、誰でも自由に気兼ねなく話すこと、ができるという意味です。
教会の人たちは、「大胆に御言葉を語ることができるように」と願いました。語ることを禁止してくる権力者を排除してください、ではないのです。
わたしたちの自由を抑制するような権力者がいて困難があるかもしれない、けれども「大胆に御言葉を語ることができるように」というのが教会の願いです。
困難はなくなりません。変えられないかもしれません。しかし、困難はあるけれども、困難の中にあっても、み言葉が語られ、み言葉を聴いて生きていくことができるようにと、改めて「主よ」と呼びかけがなされて祈っています。前向き肯定的な祈りで、ここから今日の説教題とさせていただきました。
この祈りは、直ちに聞かれました。
31節に、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」と書かれています。
時の権力者たちは4章17節で「話すなと脅し」、18節で「教えたりしないように」と、命令しましたが、神によって許可されたもので、神が与えてくださった大胆さであり、自由なのです。
この世の中の権力に気を遣うのではなく、神の力によって、「聖なる僕イエスの名によって」(30節)、神の力によって、大胆に神の言葉を語れますようにという、教会の祈りに神が応えてくださったのです。



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