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天使の顔(使徒6:8-15) 20260503

  • 5月3日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月23日

(聖書)

出エジプト34章29-35節(旧約152頁)

使徒言行録6章8-15節(新約223頁)


👇2026年5月3日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください 



本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年5月3日の復活節第5主日礼拝説教要旨です。

杵築教会伝道師 金森一雄


1.伝道の広がりと迫害


使徒言行録6章8節に「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」と書かれています。今日の箇所に登場する中心人物は、最初の執事として選ばれた七人のうちの一人ステファノです。

9節に、「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。」と書かれています。


ステファノと議論していた「解放された奴隷」という耳慣れない言葉が書かれています。この言葉が出て来る背景には、紀元前63年のローマの将軍ポンペイウスによってエルサレムが包囲・制圧された事件があります。1世紀のユダヤ人歴史家で敗者側に属しながら勝者のもとで歴史を書いたヨセフスが、この戦闘で死んだユダヤ人は1万2千だと『ユダヤ古代誌』の中で書いています。ローマの捕虜となり、奴隷として連行された可能性のある人々の数は確かではありませんが、数千人規模だったと推定されています。この戦闘で負けたユダヤ王朝は事実上終わりを告げてローマ支配が始まり、ユダヤ社会の構造そのものを大きく変える転機になり、良くも悪くもこれが後の広域的なユダヤ文化ネットワークが形成される、ユダヤ史の流れを方向づけた分岐点となる出来事です。


その後自由の身分になって解放された人々は、ディアスポラ・ユダヤ人と言われて、ユダヤ教の伝統であるモーセの律法や神殿を重んじて各地でシナゴーグ(会堂)を作ってコミュニティを形成していました。70年近くの歳月を経て、ディアスポラ・ユダヤ人たちは母国語が話せず公用語のギリシア語で各地のシナゴーグの礼拝に参加するようになっていたのです。

ステファノ自身もギリシア語系ユダヤ人(ヘレニスト)です。解放された奴隷の会堂」に属する人々とは文化的背景が近かった可能性があります。同じ土台に立ちながら、イエスを受け入れるか否かで異なる結論に至ったことが、より強い対立と感情的反発を生んだのでしょう。


2.ステファノの顔


10節に、「しかし、彼(ステファノ)が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」と書かれています。そして11-12節には、「そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを捕らえ、最高法院に引いて行った」と書かれています。彼らは根も葉もないことでステファノを訴えたのです。


さらに13節以下では、「そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」と、一線を越えてまで偽証や扇動までして争う様子が書かれています。


ステファノは確信に満ちています。15節に「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」と書かれています。ステファノは最高法院で神様の真理を語る証人として立っており、その使命性が象徴的に「天使の顔」という表現で示されているのです。

「天使の顔のように」とありますがどんな顔を想像されますか。

いろいろな天使の顔が想像されます。


出エジプト記34章29-31節には、「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。」と書かれています。


マルコによる福音書12章25節には、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と語られた主イエスの言葉があります。この言葉をもとに、光を放っているような天使の顔が多く描かれています。画家たちは、天使を男性か女性か分からないように描いています。

この時の、ステファノの顔がモーセの顔のように光り輝いていたわけではないでしょうが、ステファノが神様から遣わされた者としての権威と聖さを帯びていた、という理解がなされているのでしょう。


3.主を仰ぎ見る人


今日、礼拝に集ったわたしたちも顔つきが変わってきているはずです。仕事へ出掛ける顔、どこかへ買い物や遊びで出かける顔ではないはずです。神を信じる者は皆、次第に顔つきが変わっていきます。信仰に生きる者は、顔つきだけでなく、歩き方も、声も、まなざしも変わります。


この世界は、恐れ、不安、心配、悲しみ、怒りなどに満ちていますから、放置するとわたしたちの顔もそのような顔になってしまいます。わたしたちの人生においても、大なり小なり、様々な危機があります。その時にどのような顔をするでしょうか。恐れや不安に沈んだ顔をする時もあるかもしれません。


しかしこの世は、神が独り子を送ってくださった世です。

一週間の中で、一週間に一度だけであっても、礼拝することに集中することによって、主を仰ぎ見る顔に、礼拝する人の顔に、変わっていくのです。

本来、天地創造の神様に造られた人間は、神様を礼拝する者として造られたので、礼拝に生きると、本当に人間らしく生きることになりますので、顔つきが変わっていくのです。いかにわたしたちの罪が深くとも、罪を赦されて御言葉を聴いて生きることができるのです。


詩編34編6節には、「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」と書かれています。かつての詩人は苦難の中でも、確信をもってこのように祈ることができたのです。

わたしたちは日曜日ごとに、共に「天使の顔」を確認しながら主に向けて顔を上げることができるのです。2026年度も主を仰ぎ見て、感謝に生き、礼拝を大事にする歩みを送りたいと思います。

礼拝に集う時、わたしたちの顔つきは変わります。


 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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