top of page
検索

復活~新しく生かされる(ヨハネ20:1-18) 鈴木喜美子牧師 20260405

  • 4月5日
  • 読了時間: 10分

更新日:10 時間前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年4月5日復活節第1主日礼拝の説教要旨です。


👇2026年4月5日の杵築教会週報は以下をクリックしてご覧ください


 

イースターおめでとうございます。主の御復活を皆さまとご一緒にお祝いできますことを心から感謝いたします。

 実は私は一昨年夏に帯状疱疹にかかりまして痛くて痛くて何もできないで、ほぼ毎日寝ている状態でした。聖愛ホームに居ますので日常生活は、食べることも、お風呂も洗濯も病院に行くこともできるのですが、しかし何もすることができずに約1年寝ていました。その間にすべて忘れてしまいました。2年近く、今も痛みは続いております。

そのような私に先日説教依頼が入ったものですから、びっくり仰天して、私には「痛い」という言葉しかありませんから説教は出来ないでしょうと申しましたら、金森先生が「先生、その痛いの話して下さい」とおっしゃいました。その時ひょいと「神の痛みの神学」という言葉が脳裏を走り、そうか、わたしより痛い思いをされたのは主イエス様ご自身なのだと、電話で、はぃ、はぃ言っているうちに何となくお受けしてしまいました。


 痛みの中にあって、毎日が祈りでした。というより、言葉にはならない呻きでした。「痛い、痛い」だけです。けれども、少し落ち着いてきた時には、聖書の御言葉が語りかけてくるのを受け止めることができました。預言者イザヤは「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであった。…彼が刺し貫かれたのは、私達の背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達の咎の為であった。…そうであるのに私達は、彼は神の手にかかり苦しんでいると思った。…そして彼の受けた傷によって、私達は癒された」と言っています。やがて来られる救い主、神の御子に、父なる神様は「私たちすべての罪を負わせられて、全ての人を赦し、癒して下さる。」なんと素晴らしい預言でしょうか。


 地上に来られたイエス様は、預言者の言葉の通り、神の国の福音を宣べ伝えられ、そのお体を十字架に捧げられました。罪も咎も病も痛みもすべて主は担ってくださって十字架の上で「成し遂げられた」とおっしゃって息を引き取られたのです。やがて日没が来ると安息日になりますので、アリマタヤのヨセフやニコデモたち、12弟子ではない、隠れた弟子たちによって、イエス様の御遺体は園にある墓に急いで葬られたのです。


 私は帯状疱疹の痛みを味わって始めて、十字架の痛みのほんの少し味わわせて頂いたと思いました。足が冷えました、かかととか足の甲とか、ふくらはぎが締め付けられてしびれ痛む、小さなホッカイロをペタペタ張って温めました。十字架のイエス様はしびれや冷えでどんなに苦しかったか、痛かったか、想像を絶するほどの苦しみであったと思いました。私はイエス様のかかとやふくらはぎを温めて差し上げたいと思いました、けれどもイエス様の足元こそ私の悔い改めの場所だと思いました。


 今朝はヨハネ福音書20章の御言葉が与えられておりますのでそこから聞きたいと思います。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行った。」イエス様の葬りの様子を女性たちは遠くからじっと見守っていましたので、マリアは愛する主の御遺体を丁寧に葬ることを願って、香料を持ってお墓に出かけました。


 ところが入り口の石が取り除けられているのを見てとっさに「墓が荒らされた」と思ってすぐに弟子たちの処に急いで伝えに行ったのです。ペトロともう一人の弟子もすぐに走って出かけました。もう一人の弟子の方が早く着いたのですが一番弟子と言われるペトロが来るのを待って、まずペトロが墓の中に入って包んでいた亜麻布と頭を包んだ覆いがあることを確認しました。


 8節にもう一人の弟子も入って来て「見て信じた」とあります。おそらく、イエス様のお体は誰かに奪われたのではなくて、ご自分で覆われていた布を取り外して丸めていかれた、死の力を打ち砕かれた、死から解放された、その事実を信じたということであろうと思います。処が9節には「イエスは死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。ここは聖書を研究される方々がいろいろ言われる処なのですが、私の神学校当時の先生で、ヨハネ福音書の権威者でいらした先生の言葉によりますと、このヨハネ福音書を書いたのはこの「もう一人の弟子」といわれるヨハネであろう。恐らくここは、この著者自身が、空の墓を見ても、聖書のことがまだよくわかっていなかったのだということを記しているのではないだろうか、つまりヨハネ自身は、まだ分からなかったと告白しているというのです。


 つまりイエス様の復活を信じるということは、ただ、墓が空だったということを見るだけでは成り立たないということです。これは私達に当てはまるということです。私達、ここに居られる皆さん、長い信仰生活をしておられ、日々、イエス・キリストの復活を信じますと告白しておられるでしょう。しかし、毎日の生活の中で本当に主は生きておられると、復活の主に生きる喜びを知るまでには、長い年月が必要であったと思います。弟子たちも、イエス様が素晴らしい方である事はよくわかっていました。神様から遣わされたメシアですと迄告白しました。愛の方、十字架で私達のために死なれた方、しかし墓が空であったというだけでは、イエス様は復活されたとなかなか信じられないでつまずいてしまうのではないでしょうか。


 イスラエルに旅行された方もいらっしゃるともいます。エルサレムには、2カ所、ここがイエスイエス様のお墓であろうと言われる場所があります。その一つで20世紀イギリスのゴードンという人が発見した岩をくりぬいた横穴式のお墓があるのですが、観光客はそこを覗くようです。私も覗いて見ました。しかしお墓を見ても復活信仰は生まれないのです。


 ある本に「復活は十字架よりも深い躓きであったかもしれない」とカルヴァンの言葉がありました。それは、弟子たちが、イエス様が幾度も話された「十字架の死と復活」の教えを忘れているからだというのです。

 けれどもイエス様はそのような弟子達を放っておくことはなさいません。復活された後、その日の夕方です、戸を閉じて隠れている弟子たちの所に来てくださいました。その日そこに居なかった弟子が、イエス様の御傷を見なければ信じないというと、再び弟子達の処に来てくださり、お体を示して「信じる者になりなさい」と言われたのです。


 それでもまた、田舎に帰って漁師の生活を始めようとする弟子たちに、「船の右側に網を打ちなさい」と言われたのです。ルカ福音書5章には、ガリラヤ湖で漁をしたことが書かれていますが、彼らはその時弟子として召命を受けました。そしてこの時も、復活の主イエス様は、かつて召命を受けた時と同じ言葉で「わたしに従いなさい」と語られたのです。彼らはそこで、家を捨て、仕事を捨ててイエス様にお従いすることができたのではないでしょうか。「主は生きておられる」、その信仰に立つことができ、主に従ったのです。イエス様は、この世の波風に弄ばれているような私達にも「信じる者になりなさい」と、礼拝を通して、交わりを通して幾度も導いておられるのです。


 そして今日もう一人の弟子が居ます。マグダラのマリアです。彼女は弟子たちにお墓が暴かれてことを伝えた後、戻ってきて一人で墓の外に立って泣いていたとあります。「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに二人の天使が見えました。天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声を掛けると、マリアは「わたしの主が取り去られました」と言いながら、後ろを振り向いたのです。しかしそこにイエス様がおられることが分からなかったのです。


 主が「婦人よ、なぜ泣いているのか、誰を探しているのか」と声を掛けられるのですが、マリアはそれが園庭だと思って、遺体が取り去られたことを告げました。イエス様だとは分からなかったのです。イエス様が「マリア」と言われた時、マリアは振り向いて、ヘブライ語で「ラボに」(私の先生)と言った。「マリア」と名前を呼ばれてはじめて、主イエス様だと分かりました。


 それまで彼女はずっとお墓の中を見ていました。イエス様の御遺体の置かれていた方、死の世界を見ていました、けれどもイエス様は、マリアの見ていた方向とは全く違う方向から声を掛けられました。彼女の思いを超え、常識を超えて、全く違う方向から主の声を聴いたのです。

これまで見ていた方向ではない、別の方向に目を止める。神の言葉を聞いて、その方向に向く時、私達もまた、この私を見つめておられる主がおられることを知るのではないでしょうか。


 マリアはうれしくてすぐにイエス様に縋り付こうとしましたが、その手は振りのけられ「わたしに縋り付くのはよしなさい」と言われます。女性はまあ大抵こうだと思います。久しぶりにお会いできるとハグしたり、手を握ったりしますから、振りのけられると悲しいです。けれども、イエス様は神様でいらっしゃいます。父なる神様のもとに昇って行かれる方です。マリアの人間的な思いで、自分のもののように取り込んだりすることはできません。


 復活の出来事は神様の出来事です。人の思いを超えて、神が死を打ち砕いて下さった出来事、これが人間の歴史の中にはっきりと表わされたのです。重要なことは、「復活は神の出来事である」ということです。


 マリアは振りのけられましたが、拒絶され失望させられたのではありません。「わたしの兄弟たちの所へ行ってこう言いなさい『私の父でありあなた方の父である方、また、私の神でありあなた方の神である方の所へ私は上る』と」。この大切な言葉を伝えなさいとマリアに命じられたのです。マリアはまた走って行ったかもしれません。そして弟子たちの所へ行って「私は主を見ました」と喜んで主の御言葉を伝えたのです。


 「わたしの父は、あなた方の父となられた、あなた方は私の兄弟姉妹である、私の家族であり、神の家族である」と言われたのです。神の子である者達は新しい神の家を創っていくのです。それは教会です。神の家です、神の家族です。ですから弟子たちは、家も仕事も、自分を捨ててイエス様に従ったのです。自分の家ではない、神の家を建てる為です。全ての人がキリストの弟子となって、神の子となり共に生きる、教会を建てるために出て行きました。マタイ福音書には、「全世界に出て行って、全ての人を弟子としなさい」と、イエス様の大伝道命令があります。今は伝道困難な時代ですが、それは昔の事ではありません、今も語られているのです。


 「マリア」と呼んでくださった主の御声はマリアの心の中にずっと残っていたと思います。「主は生きておられる。私は人間的な思いで主を捕えようとしたけれど、主は神であられた、その生きておられる神様が私を見ていてくださり、捕らえて下さり、導いて下さる」。マリアはどこに行っても、復活のイエス様のことを語って伝道したのではないでしょうか。マリアは女性伝道者第1号だと思います。


 カール・バルトという、スイスと言いますかドイツ出身のと言いますか、著名な神学者がおられます。この方は、神学者として素晴らしいのですが、説教者としても素晴らしい方です。この方の説教の中の言葉であったと思いますが、「イエスは、神が居ますということのために戦い、神が居ますという事実をこの世の中に持ち込まれた」というのです。どのようにしてかというと「人としてこの世に来られた主イエスは、多くの人の為に『ご自分の体とご自分の血』を与えてその死によって死を殺し給うた」というのです。


 「キリストの復活は、われわれ人間を苦しめ圧迫する死という最後の敵に対して、神は勝利者であり給うということです。そのことを見る目、主イエス様の墓の謎を解明する、その為に私達は招かれている」というのです。キリストの復活によって古い世界は崩壊し、新しい世界が始まりました。古い人間、神無しの人間は葬られ、神にある新しい人間が生まれたのです。私達は復活の主を見る為に招かれているというのです。


 それはどういうことかと言いますと、私達が礼拝に招かれているということです。礼拝において新しい人として生かされるのです。信仰によって、聖霊の力によって、古い人は葬られ、新しく生きる者とされる、神の栄光を表す者となるように招かれているのです。私達はこの後聖餐に預かります。イエス様は体を張って罪と死に勝利してくださって、私達を新しい存在として立たせてくださっておられるのです。その主の恵みを心から感謝して聖餐に預かり、一週を始めたいと思います。



 
 
 

コメント


《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2035 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page