神から出たものなら(使徒5:17-42) 20260419
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(聖書)
イザヤ書40章1-8節(旧約1123頁)
使徒言行録5章17-42節(新約222頁)
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年4月19日復活節第3主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
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1.命の言葉
今日の聖書箇所使徒言行録の5章17節には、「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。」と書かれています。
民衆の多くが使徒たちのところへ行ってしまい、自分たちのところに来なくなってしまったので、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は「ねたみ」に燃えました。そして使徒たちを逮捕したのです。使徒たちが入れられた牢について、わざわざ「公の牢」と書かれていますから、民衆にも誰がそこに入れられたかが分かっていることが示されています。
続く19-20節に、「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。」と書かれています。
主の天使とは、神から遣わされた天使的存在として聖書の中で何度か登場します。天使は、神の意志を人間に伝え、実行させるメッセンジャーとして働いています。
その天使が、『夜中に』牢の戸を開けて捉えられていた使徒たちを外に連れ出して、「神殿の境内に立って命の言葉を民衆に告げなさい」と、神様の意志を告げています。そして21節には、「これを聞いた使徒たちは、『夜明けごろ』境内に入って教え始めた。」と書かれていて、『夜中』から『夜明け』という一日の最初に使命として与えられたことを実行している出来事として強調されています。
公の牢に入れられた使徒たちが、なすべき使命として最初に与えられたことは、「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」ということでした。主イエスの十字架について証言し、自分たちの経験した主イエスの救いの出来事について証をするよう、天使を通じて神様から示されたのです。使徒たちは、ためらうことなく、すぐに解放されたその日の最初の活動として、神殿の境内に立ち神様を証しする使命を果たしていることが強調されているのです。
ここに主の使いとして天使が登場していますが、牢の戸を開けて使徒たちを外に連れ出す力を持つ主の使いです。そんな天使なら直接、民衆に「命の言葉」を語った方が手っ取り早いはずだと思うのですが、神様はそうはされません。神様のご意志は、人間の手によって「命の言葉」を語らせることで、使徒たちにそのことを委ねることでした。それが神様のご計画なのです。
ペンテコステの出来事から、エルサレムの一つの小さな群れとして教会の歩みが始まりました。迫害があり、困難もありました。主イエスの時代のユダヤ教のリーダーたちは、一枚岩ではなく、神殿中心のエリート(祭司・サドカイ派)、民衆に近い宗教教師(ファリサイ派・律法学者)、政治的判断を行う議会(サンヘドリン)といった複数の層に分かれていました。
そして、イエス・キリスト は、特にファリサイ派や宗教エリートのあり方を批判し、「人の内面的な信仰」や「神の国」を強調したため、最終的に既得権益の中にいた彼らと深刻な対立に至ったと思われる様子が聖書に書かれています。
しかし神様は、イエス・キリストを頭とする新しく生まれた教会を確かに導いてくださっていました。この主の命令に従って、教会は二千年にわたり「命の言葉」を証言し続けているのです。そしてこれからもそうなのです。どのような妨げがあっても、わたしたちが「命の言葉」を聴いて、主を信じて歩むことが、わたしたちが与えられた使命です。それを誰も止めることは、誰もできないのです。
2.思い惑う人たち
21節bに、「一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。」と、そして22節には、「下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。」と、大祭司とその仲間の様子が書かれていて、23節には、「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」と、使徒たちを牢に入れたに最高法院で裁判をかける思惑と牢に捉えられた使徒たちがすでに牢から消えていた様子が書かれています。しかも牢の鍵はしっかりかかっていたし、戸の前には番兵も立っていたということまで念入りに書かれています。
そして24-25節には、「この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。」というのです。
使徒たちを牢に入れた大祭司たちは、その使徒たちが牢の中にいることをまったく疑わずに、人間の思いで裁判の準備を進めて議会を招集していたのです。
一方で、使徒たちは天使の手によって堂々と連れ出されてしまいましたから、使徒たちを牢に入れた者たちが大慌てしているのです。使徒たちは神様の御計画に従って夜中に牢を出て、夜明けには民衆の前で「命の言葉」を語っていました。
そのように、人間の思いと神様の計画の違いが対照的に浮き彫りにされて、人間の思いではなく神様の計画こそが実現されて行くことが強調されているのです。
民衆は、公の牢や最高法院で起こった奇跡として、なんとも言えない、滑稽な事態を目の当たりにしていました。それを目の当たりにした民衆には、神様が使徒たちの側に立っている、神様が使徒たちに「命の言葉」を語るようにと命じている、使徒たちが牢から出されて「命の言葉」を語っていると思ったのでしょう。
だからこそ、26節に「そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。」と、書かれているのです。使徒たちに手荒なことをしたら、神に逆らったことをしたと民衆から言われて、石を投げつけられて自分たちに危害が及んでしまうかもしれない、下役たちはそう考えて恐れたというのです。この不思議な出来事を前にして、民衆は神様の働きを妨げることはできないと悟ったのです。
3. ガマリエルの提言
それから使徒たちはまた捕らえられています。
29節では、最高法院の中で大祭司から、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」と尋問を受けています。
そして、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と、主イエスの十字架の出来事を堂々と語ったのです。さらに32節で、「私たちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます。」と答えているのです。
33節には、「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」と書かれています。そんな時に、ファリサイ派に属するガマリエルという人物が立ち上がります。ガマリエルは35節で、「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。」と、議員たちに語っています。そして38節では、「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」と提案したのです。
ここで、ガマリエルが「ほうっておくがよい」と言ったということは、真偽のほどはいずれ分かると考えているからです。ガマリエルは、人間がいろいろしたことは神様によって自ずと結果が出ると信じる立場だったのでしょう。
ガマリエルは、テウダとガリラヤのユダの両者の出来事に、イエス・キリストの出来事を結び付けて語っています。テウダ、ユダ、そしてイエスの三者の出来事で共通していることは、いずれも首謀者が死んだということです。
教会の人たちは、イエス・キリストの復活を信じていますが、主イエスもテウダとユダと同じように死んだということには変わりはありません。首謀者は皆、死にましたが、その首謀者が本物だったどうかは首謀者の善悪によって分かるとガマリエルが言っているのではありません。そうではなく、「ほうっておくがよい。」と言ったのは、神様の存在を信じて首謀者の追従者がどのようになったのか、そのことで真偽を判定しようと提言しているのです。
39-40節に「一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。」と書かれています。
そして41-42節では、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」と、使徒たちが主イエスの名を身に帯びて、イエスのために辱めを受けるほどの者にされ、鞭で打たれて血まみれになってなお、喜んでみ言葉に生きている姿を描き出しています。
それは、主イエスがわたしたちの罪の赦しのために引き受けて下さったという辱めによって、わたしたちに、悔い改めて罪を赦していただく命の道が開かれたと、使徒たちは喜んだということです。そして、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」というのです。
テウダやガリラヤのユダは自滅しています。イエス・キリストは死んで葬られましたが、三日目によみがえられたのです。主イエスのご計画や行動は人間から出たものではなく、神様から出たものだということは、今を生きるわたしたちの姿から証しされているのです。今日ここには、杵築教会の礼拝堂に集うわたしたちの姿があります。あるいは礼拝のこの場に集うことはできなくとも、神様の言葉を聴き、み言葉によって生きようとしている者たちの姿があります。礼拝に集うわたしたちの様子や、祈り賛美する姿、そしてキリスト者として生きている姿は今なお存在しているのです。
わたしたちの姿に、キリストが今生きて働いておられることが写し出されます。
わたしたちは、血まみれではないかもしれませんが、やはり様々な問題を抱えています。罪を抱え、間違いや失敗を繰り返しています。
しかしそれでもイエス・キリストの赦しを身に帯びて、イエス・キリストを信じて生きています。主イエスに従う新しい命に生きているのが、使徒たちの姿で、わたしたちの姿でもあります。妨害や迫害は、教会が教会として歩むことに必ずついて回るのです。迫害を受けるくらいの群れであるからこそ人々を引き付けると言うこともできるでしょうし、逆に、人々を引き付ける群れだからこそ迫害を受けるとも言えるのです。わたしたちは神様から与えられた武具、み言葉を携えて勝利して行く人生を歩ませていただいているのです。
ところでわたしたちは、広島から玉理照子先生をお招きして3月20日、21日の二日間連続して杵築教会と日出教会が協働して『玉理照子オルガン・コンサート』を開催させていただく恵みに与かりました。バッハが約300年前に作曲した作品が時代を超えて、演奏されました。それは、300年にわたり多くの人々の耳にさらされながら生き残ってきた本物の音楽だと言えます。音楽だけではなく、絵画もそうです。時間の経過とともに、残るものもあれば残らないものもある。今なおその恵みに与って残っているわたしたちを目にしてバッハの音楽が本物だったということが分かるのです。ガマリエルの言ったこともこれと同じです。
本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書40章1-8節です。
1節に、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という神の恵みの慰めの言葉があります。2節には、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と書かれていて、だからあなたがたはもう赦され、慰められるのだと、神は語って下さっているのです。
償いのための苦役は、主イエス・キリストがわたしたちに代わって受けて下さったのです。主イエスの十字架の死によって、わたしたちは、慰めと赦しを受けたのです。
わたしたちは、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを心を一つにして受け取りました。そして共にその恵みに与かり、日々新しくされて、主イエスを証しする命の言葉を語っていくのです。
そこでは、様々な苦しみに遭うことがあり、辱めを受けることがあります。
そしてそこには、主イエスと共に歩む証し人としての喜びがあるのです。
わたしたちがこの証し人の喜びを共有しつつ歩む時に、教会は確かに敷居が高くてそう気軽には入れないと思われがちですが、この世の他のどのような群れとも違う、独特な本当の喜びと慰めをいただきながら、赦されて生きる新しい命がある、そのような群れとして形成されて行くのです。



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