最初の執事(使徒6:1-7) 20260426
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(聖書)
民数記27章18-23節
使徒言行録6章1-7節
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年4月26日復活節第4主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
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1.弟子の数が増えて
使徒言行録6章1節には、ペンテコステの出来事から始まった最初期の教会においても、トラブルが発生し始めたことが書かれています。
「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」と書かれています。
苦情を申し出た人たちについて、「ギリシア語を話すユダヤ人から」と記されています。紀元前四世紀、アレクサンダー大王の大遠征によりギリシア文化が拡がって、ギリシア語が広く使われるようになりました。ユダヤ人も例外ではなく、その歴史の流れの中で世界各地に離散して生活をしている人たちが多くいました。彼らは、母国を離れて生活をして、だんだんヘブライ語が分からなくなって、公用語のギリシア語で生活をするようになります。旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書は、そのような状況の中でユダヤ人のために編纂されたものです。
ペンテコステンの素晴らしい出来事に接して、母国語のヘブライ語が話せずにギリシア語で生活をしていたユダヤ人たち、すなわちギリシア語を公用語として用いていたユダヤ人が教会の中に加わるようになっていたのです。
そういう広がりの中で、トラブルが生まれます。
ストレートな言い方をすれば、教会の交わりがうまくいかなくなったのです。
今までにはいなかった言語の異なる人が加わり、トラブルが生まれてきたのです。
人間は、自己中心的でわがままな存在です。特に言語が異なり、自分と生活習慣が異なる人と一緒にやっていくのには困難が伴います。初期の教会も例外ではありませんでした。しかし問題が起こったときに、どのように乗り越えていくのか、教会の乗り越えた様子がここに書かれているのです。
2.皆がキリストの弟子である
この問題に対して、解決に向けて教会が動き出します。使徒言行録6章2節に、「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。」と書かれています。わたしたちの教会は、4月に入ってから「信徒修養会」や「教会総会」を開催しましたが、ベースにある者は教会の主にある一致です。ここでも皆が集められ、問題の報告がなされ、解決策の提案がなされてそれが可決され、そして選挙が行われたと書かれています。
使徒言行録で使われている「弟子」という言葉は、全部で28回も出てきますが、教会のキリスト者たちのことを「弟子」と呼んでいたのです。「弟子をすべて呼び出して」と書かれているのは、教会員全員を指している言葉です。
「私もキリストの弟子になろう」、「私もキリストに従う者でありたい」と言って、洗礼を受けてキリスト者になる、教会員になるのです。それは、キリストの弟子になると言ってことなのです。ということは、わたしたちは、皆キリストの弟子です。どんな違いがあろうとも、頭は皆同じキリストであるという一致点があるのです。
3.執事の選出
2-4節で「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と、十二人の使徒たちが提案しています。
最初に、「食事の世話」とあります。ここでの「世話」というのは「奉仕」という意味です。元の言葉では「ディアコニア」という言葉で、社会福祉の分野に至るまで幅広い意味を持つようになった言葉です。ですから「食事の奉仕」とは、不公平なく食事の分配がきちんとなされるようにすることまでを意味している奉仕です。
使徒たちは、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することに」すると言っています。「祈りと御言葉の奉仕」とありますから礼拝の奉仕と捉えた方がよいでしょう。
使徒たちの提案に対して、5節に、「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで」とあります。
どういう形か分かりませんが、選挙がなされて七人が選ばれました。
ここに出てくる七人のうちの最初の二人テファノとフィリポについては、この後の使徒言行録の中でその活躍が記されています。
7章の最後で、御言葉の奉仕をして伝道をしたステファノは、迫害に遭遇して捕らえられてしまい、最後は石を投げつけられて教会の最初の殉教者になってしまいます。ステファノの話のすぐ後の8章からフィリポが登場しています。サマリアの町に伝道に出掛けて多くの伝道の実りが与えられます。そして8章26節で、エチオピアの宦官に神の導きによって出会い、御言葉を語り、即洗礼を授けた働きが記されています。
執事を選出する原因となった「食事の世話」については聖書に書かれていません。
聖書に記されているのは、ステファノとフィリポが「御言葉の奉仕」をしたことです。ということは、十二人の使徒たちも、「祈りと御言葉の奉仕」を中心に行ったのでしょうがそれだけではなく、「食事の世話」にも気を遣ったのだと考える方が自然でしょう。使徒と執事が同じような働きをしているのです。
教会には多くの奉仕があり、多くの奉仕者が与えられています。御言葉の奉仕、伝道のための奉仕、牧会の管理上の奉仕、事務的な奉仕、見えるところ、見えないところでたくさんの奉仕に支えられています。それらに大小や優劣はありません。
分業して自分の担当だけをしていれば他のところは関係ないと思っていたのでもありません。主にあって一つになってすべての奉仕が祝福されるのです。
先週、わたしたちは教会総会を行って役員選挙をしましたが、総会後役員会を開催して、役員5人を責任役員とさせていただきました。杵築教会は初期に形成されていった教会のように、役員全員が主にあって一つになって奉仕をする教会です。
中世のカトリック教会では、神と人の間に聖職者が強く関わっていましたが、ルターはそれに対して「信仰を持つ人は皆、神の前で平等だ」と主張してプロテスタント教会がスタートしました。「万人祭司(神と人との仲介者)」という、特別な聖職者だけが神に近い存在なのではなく、信じるすべての人が直接神と向き合える、誰でも祈り、信仰を持ち、神と関係を持って皆で奉仕をすると考えます。
いわゆる聖職者だけが聖職なのであり、その他の人たちは聖なる務めではないと考えられているわけではありません。教会は分業しているように見えても、分業しているわけではないのです。主にあって一つとなって、キリストを頭として皆が奉仕者として生きているのです。
4.「こうして」
6節に、「使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」と、「神の権威」を可視化した行為として按手が行われたことが書かれています。
旧約聖書民数記27章18-23節(旧262頁)では、モーセの後継者となるヨシュアに按手がなされています。イスラエルの民が、お腹が空いた、喉が渇いた、これではエジプトの方がましだったと、神に対して不平不満を言った責任をリーダーのモーセと祭司アロンが責任を取る形で、ヨシュアへとバトンが引き継がれることになった様子が書かれています。
按手というのは、手を置いて、その職務につかせるということです。
今の教会でも按手がなされることがあります。牧師としての職務につかせる時の按手、役員としての職務につかせる時の按手。手を置いて、祈って、その職務につかせるのです。実際に按手をするのは、ごく一部の奉仕に限られていますが、祈りと御言葉の奉仕者、食事の世話の奉仕者、礼拝当番や教会整備・美化にせよ、自分の務めだけを分業してやっていればそれでよいというわけではなくて、皆が按手を受けた奉仕者、手を置かれて祈られた者と考えて、そして皆が手を置いて祈る者として歩んでいくのです。大分地区においても、5月10日15時30分から別府野口教会において、清野量牧師の按手礼が予定されています。ぜひご参加いただければと思います。それが主の権威に従い、主の下で共働していくことなのです。
7節に、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」と書かれています。「こうして」とありますが、教会にトラブルが起こり、「こうして」解決していったのです。
何がなされたから解決したのでしょうか。
人が立てられたからです。奉仕をする者が立てられたからです。教会にはいつでも奉仕をする者たちの手が与えられました。働き手、担い手、祈り手です。このようにして神はいつもわたしたち人の手を用いてくださるのです。
すべてにおいてすべてを求めておられる神様は、罪深いわたしたち人間の世界に、主イエス・キリストを遣わしてくださり、主イエス・キリストを信じる者たちが集う教会がたてられていくことをのぞまれました。最初期の教会も、多くの困難や問題を乗り越えて、多くの者たちが集うようになりました。そして、ヘブライ語を話すユダヤ人から始まった教会が、ギリシア語を話すユダヤ人、異邦人、そしてわたしたちまで教会に加わるようになっているのです。
いつの時代も困難はあります。教会は「こうして」今なお働き続けているのです。



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