神の右に立っておられる(使徒7:54-8:1a)20260628
- 6月28日
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更新日:1 日前

(聖書)
創世記1章23-30節(旧約2頁)
使徒言行録7章54節-8章1a節(新約227頁)
本稿は、日本基督教団由布院教会における2026年6月28日聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
1.主イエスに倣ったステファノ
ここまでステファノは、エルサレムでイエスは「メシア」であると大胆に宣べ伝えていました。これに対し、主イエスを十字架にかけた律法学者や祭司長たちはステファノに反発していました。使徒言行録6章9節に、ステファノと激しい対立関係にあった人々について、キレネとアレクサンドリア出身者で「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア、アジア州出身のユダヤ人たちがいたことが書かれています。
実際にステファノが語ったことは、主イエスが神殿そのものを暴力的に破壊するというのではなく、神殿中心の時代が終わり律法を完成させて新しい契約が始まることでした。ステファノの教えそのものを論破できなかった人々は、ステファノが『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』と言っていた、と偽証してステファノを「神殿と律法に敵対する者」として告訴して、最高法院で裁判にかける方向へと事を運ぼうとしたのです(14節)。
新約聖書224頁の使徒言行録7章の冒頭の小見出しに、「ステファノの説教」と書かれているとおり、ステファノは最高法院の前で弁明したことが説教として書かれています。アブラハムがカルデア人の土地を出て約束の地に向かう話から始まり、出エジプトを導いたヨセフの生涯を語り始めて、ユダヤ人の歴史を通じてすべてのことは主の導きの中で行われていると旧約聖書を重んじていたユダヤ人たちの心に響くように訴えかけているのです。
今日の説教箇所は使徒言行録7章54節からで、小見出しには、「ステファノの殉教」と書かれています。初代教会の最初の殉教の出来事です。
54節の冒頭に、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」と、極めて厳しい珍しい言葉を用いて表現されています。皆さんは、これまでの人生で歯ぎしりをするような厳しい、苦しい状況に出会われた方もおられると思います。忘れたくても忘れられない出来事なのです。
ステファノは、自分に対して激しく怒り、歯ぎしりした人々に対して、52節bで「正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなた方がその方を裏切る者、殺す者になった。」と語っていますから、ユダヤ人たちが,神様から遣わされたイザヤ、エレミヤなどの預言者たちを救い主が来られることを語っていたので殺した、そして今や、同じように主イエスを裏切って殺した言われたのですから、自分たちが責められたと知り頭に血がのぼったのでしょう。
ステファノは、聖霊に満たされてが55節に、聖霊に満たされ、天を見つめ、「神の栄光と神の右に立っておられる」イエスを見た、と語っています。
そして56節には、「天が開いて、人の子が「神の右に立っておられる」のが見える。と言っています。
(人の子イエスが)「神の右に立っておられる」という珍しい表現が、55、56節で二度も書かれています。また人の子とは、主イエスがご自身のことを指して「人の子」という言葉を使われるのですが、ここではイエス以外の人,ステファノが主イエスを指して「人の子」と言っているのですが、この聖書箇所だけで用いられている珍しい表現です。
2.神の右に立っておられる主イエス
わたしたちは使徒信条で、(主イエスが)「全能の父なる神の右に座したまへり」と告白しています。「(神の」右に座す」ということは、詩編110編1節に出てくる言葉です。その意味は、神の右に座っているイエス・キリストに全能の父なる神と同じ権威が与えられていることを表す言葉です。
ところが、ここではステファノは、「人の子が神の右に座しておられるのが見える」と言うのではなく、「神の右に立っておられる」と言っていると、筆者のルカが二度も連続して用いて強調しているのです。なぜ主イエスは立っておられたのかについては、想像する以外にありませんが、人々が歯ぎしりするまでにステファノが福音を語ったことで、石打の死という殉教をしようとしているステファノを主イエスが「立ち上がられて」迎えてくださっているのだと、多くの人が考えています。
無法な石投げによって、ステファノがまさにこれから死のうとしていた、それは主イエスが人々に裏切られ、引き渡されて十字架の死に向かったことと重なる出来事です。主イエスの福音を語り石打にされ、死の瀬戸際にあるステファノに敬意を表して立ち上がって迎え入れてくださろうとしているのですから、ステファノが、主イエスと同様、神様に与えられた使命を殉教の死をもって成就することを暗示しているのだとわたしは思います。
57節には、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」と書かれています。
ここに出てくる人々とは、単なる暴徒というより、れっきとした当時のユダヤ教社会の宗教指導層であり、またそれに同調した群衆です。それなのに、ここにはきちんとした裁判の手続きが行われた様子が書かれていません。裁判はそっちのけで、法的な手続きを経ずに多人数でステファノ一人に暴力や制裁を加えています。いわゆるリンチです。当時ユダヤ人社会では、神を冒瀆した者に対して、石打ちの刑が一応定められていましたが、ローマ帝国に支配されていたため、勝手にそういうことをやるわけにはいきませんでした。それにもかかわらず、ここでステファノの石打ちを最高法院の人たちは黙認しているのです。
3.死の間際の執成しの言葉
ステファノは、息絶える直前に、二つのことを言っています。
一つ目の言葉は、59節で、「主イエスよ」と、呼びかけて、「わたしの霊をお受けください」と言っています。
これは、ルカによる福音書23節46節の主イエスの十字架の死の場面で、主イエスが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言っておられた言葉と同じものです。
二つ目の言葉は、60節で「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言っています。
この言葉も、ルカによる福音書23章54節で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、主イエスが十字架上で語られた言葉と非常によく似ています。
ステファノが、死の間際に主イエスが十字架上で語られた言葉と同じ言葉を口にすることができたのは、ステファノが普段からキリストに倣い、キリストのご生涯に心を寄せていた人であったからでしょう。
ステファノは、死の苦しみの極致にあるときに、主なる神様に自分のすべてを委ね、自分を陥れた者のためにその罪の赦しを贖ってくださるよう、執り成しの祈りをささげたのです。
初代教会では、「キリストに似た生き方をする人」について、『もう一人のキリスト』という表現をして尊敬の意を表していました。ステファノは、十二使徒ではありませんが、信徒の代表でキリストの真の「弟子」であり、最後までキリストに倣った人物として「小さなキリスト」と言われています。
創世記1章27節(旧約2頁)に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれていますが、まさにステファノは、キリストに似た者として記憶されているのです。
実は、Christianという言葉自体に、「キリストに属する者」「キリストのような者」という意味合いがあります。
わたしたち人間は、誰もが孤独に死ななければなりません。誰一人、同じ死はありません。一人ひとりの死に方は違います。死の間際まで、家族に看取られたり、病院の看護師に世話をされたり、そういうことはあるかもしれませんが、誰も死の先にまで一緒について行くことはできません。
イエス・キリストもまた、十字架上で孤独の死を味わってくださいました。周囲は敵に囲まれ、弟子たちからも見捨てられて、人間の罪を背負い、死の苦しみを味わい尽くしてくださいました。すべてを奪い取られて、全てを与え尽くして、その死はとても孤独でした。主イエス・キリストが、孤独の死を味わってくださることによって、私たちすべての死を、ご自分の死として身代わりになってくださったのです。
ですから、もはやわたしたちの死は孤独な死ではなくなったのです。ステファノが死の道をたどるとき、神の右の座に座られていたキリストが立ち上がって迎え入れてくださいました。
執筆者のルカはそのことを強調することによって、わたしたちにその同じ道ゆきをたどることができる希望があることを伝えているのです。その思いを込めて、今日の説教題を「神の右に立っておられる」とさせていただきました。
4.パウロの証言
58節で、ステファノに石投げをしていた証人たちが身に着けていた物をサウロという若者の足もとに置いたことが書かれています。
このような形で、後の使徒パウロがユダヤ名の「サウロ」として登場しています。そして、8章1節には、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」とわざわざ書き加えられています。
当時の慣習で、同一人物が二つの名前をもっている例がありました。
ここに出てきたヘブライ語名のサウロは、ユダヤの初代の王サウルと同じ名前ですが、後に出てくるラテン語/ギリシャ語名のパウロと同一人物です。聖書の中では、サウロがギリシア世界に伝道旅行に出て行くあたりからパウロと表現されています。
こうしてステファノは、石投げによって眠りにつきました。
その一部始終をサウロという人物が見ていました。
そして後に、サウロはダマスコの途上使徒言行録9章4節で復活の主イエスと出会い、回心して伝道者になってパウロと語られるようになるのです。
後に使徒言行録22章20節では、パウロ自身が、「また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」と、この時のことを振り返って語っています。上着の番をしていて実際に石投げはしていなかったようですが、このステファノの死を見て衝撃を受けて強烈に覚えていたのでしょう。
主イエスは、神の右に座してわたしたちを執り成してくださるばかりでなく、神の右に立って迎えてくださる方です。ですからもはやわたしたちは孤独ではありません。クリスチャンとして、天を見つめ、キリストに倣う者として生き、キリストと共に死を越えてまで歩むことができる希望があるのです。わたしたちをキリストの弟子にしてくださり、キリストに倣う「小さなキリスト」としてくださることは、主イエス・キリストの父なる神様のご意志、ご計画の中にあることであり、わたしたちの慰めであり祈りです。
主イエスの十字架への道ゆきは、わたしたちを支え、導き、わたしたちを救うものです。
わたしたちが主イエスと共に歩むための道ゆきを主が示してくださっていることを信じ、主イエスと共に人生の旅路を一歩一歩、進んでいくことができますようにと祈ります。
死の間際まで、いや、死を越えてまでも、主イエスがわたしたちと共に歩んでくださることを感謝します、とお祈りさせていただきます。



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